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"普通"はその人の経験の詰め合わせセット

わたしは"普通"という言葉が苦手だ。
とてつもなく苦手だ。
「普通は◯◯よねー。」と言われると顔をしかめてしまうほど、苦手だ。
なぜなら"普通"は、「その人の経験の詰め合わせセット」だからだ。

年齢を重ね、関わる人間が増え、さまざまな経験を積むことにより成長し、人間味を増し、時に悲観的になったり反対に楽観的になったり、斜に構えたり、それぞれの"ひと"が形作られていく。
それは、100人いれば100通りであるし、1,000人いればもちろん1,000通りである。

どんな経験をしたのか、
その中で、どんな"ひと"と出会い、
それらをどう感じたのか。
受け止めたのか、去ったのか。

たとえば、わたしの例を出すと。
わたしは妹がろう者であり、わたしは聴者。
そして幼い(小学生)頃から、身近にバイセクシャルの友人がいた。
なのできっとわたしの"普通"の範囲というのは幼いながらに広かったのだと思う。
そして、それは現在になり、より広くなったと感じる。

そして、この周囲の人々がいなかったと仮定してみるとどうだろうか。
わたしの"普通"の範囲が広がるきっかけの経験たちはなかったことに変わる。

(なお、わたしにとってこの彼女や彼は大切な人であるため、仮定をすることもすこし心苦しかったことを記録しておく。笑)

どんなひとに出会うか、どんな経験を積むかは、操作できないものだろう。
さまざまなチャレンジをできる年齢になれば自分から経験を積みに動くことは可能だが、「動ける=良い」とは限らないし、「動かない=悪い」とも限らないとわたしは思う。

だからこそ"普通"の範囲が狭いひと、広いひとをそれぞれこの文章の中で差別する気は毛頭なく、わたしはこう思うのだ、と書き記してみたかったのだ。

ただ、わたしはどちらかと言うと"普通"の範囲が広いことによってさまざまな方とお話をし仲良くしていただいている結果、現状とても幸せを感じているため、もしこの文章を読んでくださっている皆様の中で「普通を広げたい」と思われた方がいれば、小さな小さな"知らない経験"をしてみることをお勧めしたい。

さまざまな方と関わることは、たのしい。
どうか"多様性"という言葉が特別な色を持つこの今から、他の言葉に馴染みきるほど、受け止める間口が広い社会が早く来ますように、
そう祈って散文を終いとする。


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