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私は自分を見限ることができない

生きやすく生きたい。

たとえば、
自分を早々に見限ってしまって生きていくのか、
自分に期待をかけて生きていくのか。

たとえば自分の至らなさを痛感したとき、
「結局私はこの程度だ」と駄目人間の自分を受け入れていくのか、
まだ成長の余地があるんだと言い聞かせてもがきながら進んでいくのか。

たとえばなんにも成し遂げられなかった1日が終わるとき、
今日も生きてて偉いねがんばったと自分を誉めるのか、
まだまだやれることはあるのだ怠るなと自分を叱咤するのか。


どちらのほうが気楽に生きられるのだろう。
たぶん、自分を見限ってしまったほうが楽なんだと思う。
薄々分かってはいるけど。
それでも私はまだ自分をあきらめることができないでいる。

理想の自分を思い描いては、
そこにたどり着けない自分のすがたにため息をつく。

自分と他人を比較することはもうなくなった。
他人にも自分にも向き不向きはあるし、そもそも比べられるものではない。


でも、今の自分と理想の自分を比較してしまう。
当然ながら理想の自分には絶対に敵うわけがなくて、
負けっぱなしの今の自分が嫌になってしまう。


自己嫌悪は自分の問題だから、
他人の言動によって良い意味でも悪い意味でも、影響を受けることはない。
他人の言動によって自己嫌悪には陥らないし、
他人の言動によって救われもしない。

自分をひたすら見つめて、
嫌になって、つらくなって、
それでも明日も私は私だから、
嫌な自分でも、自分として生きていかなくちゃならない。

自分を卑下することは、自分に期待してくれる人や自分を好きでいてくれる人に失礼だとか、そんな意見を聞くことがある。
でも他人は私の全てを知らないじゃないか。


それに比べて、私は私の全てを知っている。
私にしか分からない、私のどろどろと汚ない部分がある。
私はそんなところも含めて、私のすべてが見えている。
他人と自分では、見えている私が違うのだ。
誰かが期待してくれている自分は本当の自分ではないかもしれないし、
誰かが好きでいてくれる自分は本当の自分ではないかもしれない。

誰かが自分のことを好きでいてくれるから、期待をかけてくれているから、
じゃあ自分のことを好きになれるっていう問題じゃない。
自己嫌悪も自己愛も自分の問題だ。他人にどうこう言われる筋合いはない。


他人に何と言われようと、私は自己嫌悪を繰り返している。
自分に自信がないのだ。自分の嫌なところばかり見てしまう。

それでも自分を見限れない。
きっと私は、今の自分に自信が持てないぶん、将来の理想の自分に自信をかけようとしている。

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このnote(↑)で書いた自己嫌悪中に頭を巡っていたことを文章化。
(時系列としては当記事のほうが前で、上の記事が後になる)

自己嫌悪を繰り返す自分を一度殺したから、今はかなり落ち着いている。
かなり落ち着いているので、次は明るいnoteでも書きたい。。。

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