かがやき_書影

馳平啓樹『かがやき』収録作「きんのじ」全文試し読み

小社は、2019年9月10日(月)より馳平啓樹著『かがやき』を刊行します。馳平啓樹氏は2011年に「きんのじ」で文學界新人賞を受賞し、今まで兼業作家として活動してきました。今回刊行する『かがやき』は馳平啓樹氏初の単行本となります。馳平啓樹氏の作品は、現在も製造業に従事する著者の体験を反映させた作品が多く、今回刊行する『かがやき』も「労働」というテーマでまとめた短編集となります。その『かがやき』の収録作の一つであり、著者のデビュー作である「きんのじ」を下記に全文公開します。

馳平啓樹「きんのじ」

1

何年も使われていなかった廃液処理槽をトラックに積んだ。そこは潮風のよく通り抜ける空き地になった。タンクに踏みしめられていた地表が空気に哂される。梅雨入りをすぐそこに控えた朝はどこか大らかだ。鈍く湿った土を昇りたての太陽が照らす。フェンスの影が斜めに走る。背の低い雑草が生い茂る。それは槽の丸い輪郭を描き、色を変えた日の丸のようにも見える。
三メートル四方の空き地は両隣を建物と接している。車のエンジンを組み立てる工場だ。稼働を始める前で物音は聞こえてこない。
フェンスの向こうはT字の交差点だ。LEDで光る信号機が三つ備わっている。二車線の道路が交差点から南へ伸びる。遠くで海とぶつかり右に折れる。信号が青に変わり、通勤のマイカーが動き出す。
二車線道路の左に完成車のモータープールが広がる。出来たばかりの車がずらりと並ぶ。岸には車輛運搬船が停泊している。高校の校舎みたいな大きさで、窓はひとつもない。道路の右側は車体工場だ。瀬戸内海は道の彼方に、直線に切り取られて見える。
辺りが少し暗くなる。見上げるとクジラのような雲が朝日を遮っていた。太陽に近づき過ぎた胴体をどす黒い陰が侵す。輪郭は真上からの強烈な光にやられて弾け散る。
軍手をはめ直す。雑草の根元を鷲摑みにする。引っ張っても抜けなかった。地面と固く結び付いているみたいだ。体重を上向きにかける。雑草は抗う。まだ一本も抜いていないのに薄い汗が出る。風に含まれる潮は粘っこくて、汗の湿りと嚙み合わない。斜め前にはさとちゃんがしゃがんでいる。草を相手にするなだらかな猫背に小さな羽虫がとまる。七分袖のTシャツが朝の光を受け止めている。
地表が少し割れる。さらに力をかける。根元が決壊する。土に潜んでいた地下茎がずるっずるっと持ち上がる。後ろにのけぞりそうになる。地下茎は長さが二メートルぐらいはありそうだ。触るとうっすら冷たい。地の底に溜まっていた空気が解き放たれる。雨で染み込んだ鉄粉の匂いがする。
隣の草に手を掛ける。一本目より楽に抜き取れる。二人で次々引き抜いていく。どれも異様に長い地下茎を隠し持っている。
草を取り除くと、スコップで全体を耕す。地中に潜んだ力ある土を表に呼び戻す。さとちゃんがトラックから苗を持ち運んだ。両手で抱えたトレーを地面に置く。
「バミューダグラス、ティフトン419」
指差して言う。
「別名鳥取芝」
スコップで小さな穴を掘る。苗を植えて土を固める。後ろ足で移動しながら、五十センチおき一房ずつ地面に据えてゆく。地表にへばり付く緑色の斑点が三十六個、やがて等間隔に並ぶ。
七時四十分。一斉に朝のサイレンが鳴る。東隣の第一工場でラジオ体操の音楽が鳴り出す。フェンスの向こうの車体工場からも、似たような体操の音楽が聞こえる。さらに向こうの製鉄所からも、何か聞こえてくる気がする。
磯の匂いを乗せた風が顔を撫でる。クジラが太陽の真下から逃れ、辺りは再び明るくなる。
ホースから水を振りまいた。地下までたっぷり含ませるつもりで。まぎれのない土の匂いが水気と共に立ち込める。潮風も一匙加わる。そうして広がる瑞々しい空気を吸い込んで、鉄粉が付着した鼻の穴を洗う。

九時半ちょうどに来社した交渉担当者はスーツを着る人だった。紺色の生地に、光の加減のようにも見えるストライプがさりげなく走る。ビジネス鞄も磨き立ての黒革だ。事務所の片隅にある打ち合わせ机に就くと、やや重い振動が床を走った。スーツの人は驚いて左右を確かめる。
「地震じゃありませんからご心配なく」
課長が言った。
「床の下をエンジンが流れていますから」
新月機械の総務課は第一工場の二階にある。すぐ真下に完成したエンジンを運ぶ立体式のコンベヤがあり、ときどき振動が突き上がってくる。
「なるほど」
「うちのエンジンはどれも重たいんです。六気筒とか八気筒が専門ですから。今この下を流れているのはたぶん四リッターのV6です。一基で百キロ以上」
「なるほど——」
「そんなんを、吊りかけ機で上げて、コンベヤに乗せて、そんでストッカーに運ぶんです。帰りにでも見学して下さい」
「はい、まあ」
「昔はほんと、作れば作るほど売れとったんです。工場を二つ、朝も晩も動かして、それでも足らんかった。ええ時代でした」
「ほお」
課長は一人で喋っている。前振りのつもりだろう。机上の書類をとんとんと手で揃えながら、隣で課長が話し終えるのを待つ。第二工場敷地の査定額や取得のメリットをでっち上げた資料だ。スーツの人に一部差し出すと、口をやや横に開き恐縮ですと顎を下げて受け取った。コンベヤが床板越しに低く唸る。そこに大きな川でも流れているみたいに途切れなく聞こえる。人間二人分の塊がすぐ下でいくつも蠢いている。
去年入社したとき、騒々しくて初めは仕事にならなかった。でも半年も経つ頃には気にもならなくなった。重力が人を引き付けるようにさりげなく、振動と音は総務課を床に根付かせる。昼休みにコンベヤが止まると、一瞬宙に浮き上がったような違和感を覚えたりする。
「燃費なんて、一桁前半でも誰も怒らんかったがあ」
事務所では同じ色の作業着を着た八人が今朝も机を並べている。同じ形のノートパソコンに視線を落としている。さとちゃんの猫背もそこにある。たまにルルルと電話が鳴るだけで、喋り声は聞こえない。コンベヤだけが真下で唸る。冷蔵庫の中みたいにひっそりと騒がしい室内は、六月の小さな暑さを空調で散らしている。
「では早速ですが」
課長がようやく本題に入る。前振りを終え居ずまいを正したと言いたいところだが、その声は既に腰が引けて聞こえる。スーツの人が間髪入れずに被せてくる。
「今回お手紙を頂いたお話ですが、残念ながら難しいとお答えせざるを得んようです」
教え諭すような眼つき。
「やはり地質に難有りということでしょうか」
課長が問う。卑屈な上目遣いだ。
「土地の改良費用でしたら、弊社で一定割合負担させて頂けますが」
「地質言いますかねえ、空から毎日鉄粉降ってくるでしょう。ご近所の製鉄所さんから。よく聞きますよ」
「鉄粉——」
課長は白のワイシャツにネクタイを締めている。でもその上に羽織るのはやはり作業着だ。首もとや袖に汗染みが目立つ。白とグレーと薄緑を混ぜたような謎の色彩は、一体誰のセンスで決められたのだろう。
「車の塗装が一年で傷むとか、機械が目詰まりしやすいとか」
デスクワークの社員もこの作業着を着る。爪先の堅い安全靴を履く。今すぐ組立ラインに立つことができそうだった。ものを作ることしか知らない会社だ。自動車メーカーに下請けとして飼われ、交渉事と無縁で過ごしてこられたエンジンビルダー。
「それに、新月さんにも日々、部品積んだトラックとか出入りするでしょう。お店開いても、すぐ隣に大きな車がびゅんびゅん来られたら、お客さんが事故に遭います」
これも建前だと思う。繁盛したという昔とは違い、部品を納めるトラックは朝一番にしかやって来ない。
「業者の搬入時間でしたら、ご迷惑褂けないように調整させて頂きます」
真面目な答えに白けたらしい。スーツの人は所在のない感じで右に目を逸らした。やがて話に折目をつけるように身を乗り出す。
「それとですねえ、ちょっと申し上げにくいんですけど。御社とか、周りの工場さんとか、そういうところから、会社帰りの汚れた作業着のまま、お店に来られる方が出ると思うんです」
それにしても、と思う。首の辺りが気持ち悪い。朝早くから草抜きをやらされた。潮臭い汗が首元に固着してべたついている。昼休みになったら工員用のシャワーを浴びに行こう。
「指導を徹底します」
「衛生面にね、どうしても不安がね」
「充分に指導を行います」
相手は何も答えなかった。冷やかな眼つきは聞こえの悪さを空とぼけているようにも見える。食料品売り場に汚らしい工員がうろついて欲しくない。誰でもそう思う。ましてやここは鉄粉が飛び交うコンビナート地区の三丁目だ。店を開いてもはやるわけがない。第二工場敷地の売却先に大手のスーパーマーケットを挙げた課長が間違っている。

苗から横向きに茎が伸び始めた。
「匍匐」
さとちゃんが指差す。地面を這うように一本ひょろりと生えている。
「または『ライナー』」
匍匐がいくつも伸びて絡み合い地表を覆う。そうして空き地は芝生らしい緑一面になるそうだ。緑色の斑点が少しずつ大きくなり、やがて交わる様を想像する。
「芝生が出来るのはいつ頃ですか」
「秋」
瀬戸内が梅雨入りして一週間経った。でも雨は降らない。この時期には珍しい羊雲が、西空から真上にかけて斑に広がる。羊がどれもやけに肥えて見える。群れが青空を塞いでいた。もうすぐ東の空にも掛かりそうだ。
「出しますよ」
第二工場の手洗い場から声を掛ける。
長いゴムホースを水が駆け抜ける。行き着く先のシャワーから水滴として放たれる。宙に舞うその一瞬、朝日を見つけてそれぞれのしずくが輝く。さらさらと舞い降りて苗を潤す。葉と茎に隈なく水が届くよう、さとちゃんは光の弧を大らかに描き上げる。
土の匂いが風に運ばれてくる。潮の気配と入り混じる。誰もいない第二工場を風が通り抜ける。工場の屋根はのこぎりの形に似て、傾斜のついた天井板と垂直のガラスが交互に続く。薄汚れたガラス板を通り抜けて日の光は柔らかくほぐれる。朝の工場は白熱電球をつけたようにほんのりと明るい。
そこには生産を中止して久しいV型八気筒のエンジン組立ラインが広がる。六リッターの排気量が自慢の大型機。でも燃費はリッター五キロに届かない。設計を一から変えなければ、どんな排ガスの規制もクリアできないらしい。組立設備はコンベヤの軸ひとつに至るまで錆びて埃に覆われている。
工場の緑化率を維持するための芝生だった。法律で定められている。植木が多い第二工場の敷地を売り払えば、工場の緑地は途端になくなってしまう。
「水止めて」
ゴムホースを腕に巻き取りながら、さとちゃんが近づいてくる。一日二回の水やりの後、いつも真円を想定するような仕草でホースを巻く。
木を買って植えるより安価だと言って、鳥取芝を勧めたのはこの人だった。芝生はマット状の芝を敷き詰めるやり方が一般的だ。けれど苗を自分で植えて育てる鳥取芝の方が、初期費用をかなり抑えられ、出来上がりも早いという。
「ぐるぐる」
動きがロボットみたいだ。今もモビルスーツを着用したように均質な機械じみた動作でホースを巻いている。人の目を意識しているわけではないと思う。でも楽しんでやっているようにしか見えない。
「明後日の水やりよろしく」
「また遠征ですか」
「じゃ」
こくんと頷く。ヤフーのオークションを駆使して、最前列のチケットをいつも手に入れるらしい。このあいだは札幌まで飛んでいた。
さとちゃんが有給休暇を取得するとき、「スク〜ル」の三人は日本のどこかでマイクの前に立っている。去年教えてもらったときに初めて名前を聞いた。テレビで見たことがなかった。ネットで画像を検索してみたら、黒のタイトな防火服を着た女の子が三人並ぶ写真が出てきた。
総務課で机を並べているけれど、さとちゃんがどんな仕事をしているのかよく分からない。痩せて色白の童顔、細くさらりとした髪の毛を短く揃える。三十歳の佐藤社員は給料をチケットと飛行機代に費やしている。
「お土産よろしく」
「うん」

湾の向こう岸にガス工場の灯りが見渡せる。立ち並ぶ丸いガスタンクが、冠みたいな光の連なりを頂いていた。ディーゼル機関車に牽引された色とりどりのコンテナが、海沿いをとろとろと進むのも見える。夕方の六時を過ぎ、東の空は曇天に夜の気配が入り混じっていた。遠くの山並みは内側から滲み出たような影を淡く纏い息を潜めている。
バスがやってきた。乗客は今日もまばらだ。一番後ろの左端に座る。水際に沿った道を南へ進む。左には陸に突き刺さる海、右には第一工場が見える。のこぎり屋根を形作る北向きのガラスに、訪れて間もない闇の静けさが入り込む。
工場の縁をまわるように道が九十度右に曲がる。左の視界から海が消える。T字路でLEDの信号につかまる。交差点に面したフェンスの向こうに空き地が垣間見える。帰り際に水をまいてきた。第一と第二、両隣の工場に挟まれて影が溜まり、苗を仕込んだ土の色は見えない。
信号が変わる。左に舵を切り、路線バスは再び南に向かう。窓のすぐ向こうにモータープールが広がる。同じ形で色だけ違う何台もの車が、バスの速度に溶かされて見える。写真でいつか見たペンギンの大群を思い出す。南極の水際でたむろする、口ばしの黄色い仲間、全身赤土色の仲間。手早く売りさばけそうな小型車が並んでいる。軽くて燃費のいいエンジンを、東南アジアから安く仕入れているらしい。
バスがまた止まる。入口が開いて五人乗り込む。男が二人、女が三人。男は車体工場の作業着を着ている。作りたてのコンパクトカーを六台載せたクレーン車がバスの前を横切る。そのまま群れの中に分け入っていく。
女は三人ともスーツを着ていた。特徴を全て鋭角に切り落とした黒いスーツに白のカッターシャツ、ジャケットと同じ色のパンツが足首まですとんと伸びる。無表情に限りなく近いけれど、そこに冷たさよりも人間らしさを感じるところがあの三人に似ている。ネットで見たスク〜ルの三人に。そんな考えがふと浮かぶ。
真ん中の子のポニーテールが何となくいい。いかにも就活生らしいところがいじましい。左胸に名札が付いていた。「タテベ」と書かれていた。他の二人には名札がついていない。タテベさんだけ名札を外し忘れたらしい。面接でグループディスカッションでもやらされたのか。
バスが動き出す。岸辺に浮かぶ白い船体が口を開けている。ペンギンが一羽ずつ吸い込まれてゆくのが見える。
内定の二文字を求めてこんな鉄臭いコンビナート地区をさまよっているとしたら、タテベさんは既にかなりのところまで追い込まれているはずだ。見た感じ文系だろう。女子ならなおさら避けたかった業界に違いない。
就活サイトにかじり付くことになるまで、新月機械という社名は聞いたこともなかった。バスで十五分のところで生まれ育ったのに知らなかった。内定が出たのは、総務課の社員が一人辞め実家の寺を継いだからだと後で知った。他に五十社くらい受けたけれど、お座成りな面接の何回目かで連絡も無く落とされた。文系と書くだけで門前払いを食らうこともよくあった。
就活を始めるまで全く知らなかった会社に毎日通っている。考えてみれば不思議な話だ。高校や大学の受験とは勝手が違い過ぎていた。行き先は無数に広がっていたはずなのに、努力してみたところでそのいずれとも嚙み合う気がしなかった。とは言えその何万もあるらしい日本の会社の中で、このシンゲツキカイと道が繫がり、他に行ける場所は無い。そこに行くことを日々繰り返す中で、時々ひどく謎めいて思えたりする。
フロントガラスに海が広がる。四国の山並みが水平線の真上で影を成している。無人島が肩まで海に浸かる。雲は途切れ、南の空はシルクを広げたように柔らかかった。西から届く名残の日差しが、空気に漂う微細な鉄粉に光と影を与えている気がする。海の表が空と同じ明るさに染まる。さざなみがそこに色を添える。
ピンポンとブザーが鳴る。バス中の降車ボタンが一斉に赤く灯る。
「間違えました」
海辺のバス停で、三人がいそいそ降りてゆく。JRの駅に向かうバスは反対側の車線だ。このバスに乗っても冴えない住宅地に辿り着くだけ。そもそもこの辺りを歩くのに、スーツはやっぱり相応しくないと思う。三人を下したバスは再び走り出す。
フロントガラスの向こうに製鉄所が姿を現す。四つ並ぶ高炉が西の茜空を縱に切り裂いている。上向きの鋼管が生き物みたいにうねり、いくつも絡まり合い、コンビナート一の高さを獲得している。煙突から立ち上る煙が、吹き始めた陸風に漂い海に向かう。炉の頂きで赤いライトがひとつずつ星のように灯されている。

鞄をソファーに投げ出す。ソファーの真ん中に陣取り野球を聴く父が「おかえり」と言う。作業着のズボンを腰から床に振り落として冷蔵庫に向かう。冷えた缶ビールを取り出し、流し台に立つ母の背中に「ただいま」と言う。
会社から帰ると家族の夕食が始まる。残業で遅くなっても待っていてくれる。両親が腹を空かせている様子はあまりなかった。他にやることのない父は酒を飲む。料理を三人分作り終えた母は換気扇の下で煙草を吸う。
缶ビールを手に食卓に座る。焼きアジの開きと何かのコロッケ、胡瓜のおひたし。父が焼酎の水割りを手に持ち大儀そうに座る。母は台所で汁ものを別けている。五つある椅子の残り二つには着古した家着が背もたれにかかる。上の兄の椅子には母のカーディガン、下の兄の椅子には父のジャージ。
「ひかりスーパーは敷地買うてくれそうなんか」
「あかんかったなあ」
三日前、正式に断りの通知が届いた。
「隣の高専は」
「あかんなあ」
「ほな、どがんなるんじゃ」
アジを箸で別ける。口に放り込む前にビールを缶のまま呷る。
「知らん」
去年六十の定年を迎えるまで、車体工場で工員として働いた。大昔から隣にある新月機械にも、それなりに思うところがあるようだ。
「他に買うてくれるところないんか」
「知らん」
四十二年働いた。五年働けば一年寿命が縮まると言われるところで。ボデー溶接、塗装、アクセル組立、車体組立。全ての工程を渡り歩いたという。小学生の頃、社会科見学で工場に入った。作りかけの車体と一緒に父が右から流れてきたのを覚えている。背を大きく後ろに反らして、両腕を張り上げて、アンダーパネルを取り付けていた。
「どこも厳しいんじゃな」
しわ寄せは腰に来た。寝ても起きても鈍い痛みが居座るという。定年後の再雇用を断った。家の周りを歩くことさえ億劫がり、やがて引きこもる。年の割に歯の抜けもひどい。働いているときから特に横の歯がボロボロだった。
「野球の音小そうせえ」
台所を離れた母がそう言って加わる。豆腐の味噌汁と白米を食卓に置く。リモコンを手に取りテレビをつける。七時のNHKニュース。
「おめえ、早よ小そうせえ」
「聴いとるんじゃ」
「野球ばあ聴いとる暇あったら病院行きねえ」
「治りゃあせん」
腰をやられた愚痴を言う。そうでなければ、こんな家を売り払って沖縄に移住したいとか、突拍子もないことをいきなり言い出したりする。退職金を使ってどこへでも行けばいいと母が言えば、腰の治療費は誰が出してくれるのかといじける。
ラジオ中継が沸騰する。試合に動きがあったようだ。スカイマークスタジアム。プロ野球セパ交流戦。バックスクリーンに飛び込む第十一号逆転スリーランホームラン。
「ラジオ小そうせんか」
「テレビも大きくすればよかろう」
——政府のエコカー補助金を追い風に、燃費の良い自動車の人気が高まっています——
「哲司、帰ってくるのが早くなったなあ」
今ゆっくりとホームイン。
「暇じゃから」
「車関係は最近忙しいんと違うの」
四対三。カープ、一球で逆転です。
「うちは別。エコカー関係ねえけん」
ここでピッチングコーチが——、マウンドに向かいます。
内野手も、集まる。
「最近はあれじゃなあ、敷地売る書類書いて、あとは——」
監督も出てきましたね。ピッチャーを代えるようです。
「芝生の養生しとるだけか」
試合は今日も分からなくなりそうです。

七月に入ると雨降りが続いた。匍匐があまり伸長していなかったので、梅雨の長雨に期待していた。水やりの手間が省けるのもよかった。今日は久し振りの晴れ間だ。成育を確信して様子を窺う。
「水没」
さとちゃんが指差す。
空き地の東側に水たまりが出来ていた。苗がすっかり沈んでいる。
「あーあ」
水はけには注意したつもりだった。フェンス下側の側溝に水が流れるよう、地面に傾斜をつけていたのだ。でも長雨には効かなかったらしい。
「バケツ」
梅雨前線が北へ追い込まれ、俄かに暑い一日だった。太陽はやたら高いところにある。水をきちんと取り除くのに時間を費やす。バケツで水を掬っても、また地面の下から湧いてくるかのようだ。肘下まであるTシャツの黒い袖で額の汗を拭う。
遠征土産に貰ったスク〜ルのシャツは七分袖だ。袖からの風通しがいい。着心地が爽やかだった。メンバーの一人が描いたファイヤーマンの絵が、白い胸元にプリントされている。アイドルグッズらしく見えなくて、普段着でいけそうなのもいい。去年総務課に配属されたときにも同じシャツを貰った。やっと後輩が一人できたと言って、さとちゃんは喜んでいた。
「これ、大丈夫かなあ——」
水に浸かった葉の表面が白く霞んでいる。
「あちゃ〜」
「枯れませんかねえ」
「諸行無常」
肝心な問いになるとはっきり答えない。皮肉めいたことを言ってとぼける。「自分で考えろ」みたいな顔をする。オタク野郎のムカつくところだ。でも顔がうっすらニヤけているのは、何とかなるという意味だろう。
さとちゃんが肥料の封を開ける。
「14—14—14」
「またの名を?」
「アラジン」
「どこで買ったんですか?」
「ヤフオク」
苗の合間の土にアラジンを散布する。水没した東側は特に念入りにまいておいた。

前線はそのまま大陸に押しやられた。
明くる月曜、夏がやって来た。
「いい感じですねえ」
「じゃ」
季節がひとつ進むと同時、芝は勢いよく成長し始めた。日当たりの良い南側では複数の匍匐が絡み合っている。太陽を摑み取ろうとする頼もしい縱の伸長も見て取れた。水に浸かり白みがかった葉も、いつの間にか元の緑を取り返している。
勢いよく水をまく。夏場の管理が芝の出来上がりを左右すると、たまたま見つけた誰かの芝生ブログに書かれていた。伸び盛りの季節には水とアラジンがたっぷり必要になりそうだ。
楽しくなってきた。日差しがもたらす底抜けに夏っぽい汗を作業着が吸い取る。この夏、土いじりで真っ黒に日焼けするのも悪くない。
誇りに思えてきた。小さな空き地が明るい緑色に生まれ変わる様を思い描く。ゴルフのパターが練習できそうな美しい芝生に。
「ここの芝生が上手くできたら——」
七時四十分。コンビナート中、一斉に朝のサイレンが鳴る。
「次は食堂横の休憩広場をやりましょうよ」
「無理」
さとちゃんがにっこりと笑った。
「その前に会社が潰れる」
「今度スク〜ルのCDを貸して下さい」

父宛てに一通の封書が届けられた。
消印の日付は七月最後の水曜日。父の故郷の村役場からだった。乱雑に破いた封から取り出した紙を、夕食の席に広げる。A4縦一枚限りの簡素な書面だ。その真ん中には見覚えのない生年月日と氏名が記されている。
父は神妙な顔付きを拵える。顔に紙を近づけて凝視した。指折り何かを数えている。フンと鼻から息を吐いた。
「生きてたら、何歳じゃ思とろう」
「知らん」
父は指を三本立てる。宝くじの当選番号でも告げるみたいに一桁ずつ言う。
「百・十・一歳」
「ゾロ目」
生死に関する情報を求める対象として書面に書かれていたのは倉田庄一という名だった。明治三十二年十月四日生まれ。
「誰なん、その人」
「わいの伯父じゃ」
「私も知らん。初めて聞く」
毋が口を挟む。
「まあ、みんな知るわけがないわな」
父が視線を約二十度上に傾ける。念の為という感じで、記憶を検索しているように見える。夕方早くから酒を飲んでいたらしく、特に右頰がてらてらと赤い。
「わいも、どんな人かは知らん。親父の一番上の兄らしいが」
戸籍が残っている。しかし役揚では生死を確認できない。親戚関係はもう村になく現状を摑めない。戸籍を抹消する方向で進めたく、近しい親族である父に確認を求めたい。書面にはそう書かれている。
「戦争で死んだって聞いとる」
「ふうん」
棚田の集落は、道を十メートルも真直ぐに作れない中国山地の奥地にある。十八で車体工場に働きに出るまで、父はその村で暮らした。
十年前に死んだ祖父を思い出す。八十を超えても髪がやけに豊かで、癇癪持ちだった。性分が子供のようにわがままで、一度火が付くと孫や母にも見境なく説教を垂れ続けた。祖父の兄というこの倉田庄一さんも、同じ性格だったのだろうか。夏休みにあの鬱陶しい山の中に帰省させられるのが苦痛だった。そんな記憶が、ざらついた手触りを伴い蘇る。
この話題は特に弾まなかった。そんなことより気になるのが、父がスク〜ルのTシャツを着ていることだった。去年貰った古い方の七分袖だ。ファイヤーマンが父の胸元で散水ホースを構えている。母が簞笥から適当に引っぱり出して渡したのだろう。父は風呂上がりの着替えを自分で選んだりしない。
イカの刺身を食べた。鰻のフライを齧った。氷水よりも喉越しの軽い第三のビールを缶から呷った。母はリモコンを取りテレビをつけた。七時のNHKニュースはもう天気予報のコーナーだ。父は書面を封筒にしまった。
「役場はしょうもねえことしよる」
三十二型の液晶画面に、小さな日本列島が描き出されている。
「生きとるわけがないが」

フェンスの向こうの並木で、蟬が幾重にも鳴いている。汗が止まらない。上半身裸になる。猛暑は朝の九時を過ぎた時点で全体を制圧し終えている。
東の第一工場が作る日陰は乏しくて、暑さを宥めてくれそうになかった。湿気と熱に燻された空気は、肌に対して刺々しい。雑草を摑む右手が痛い。夏の勢いに乗じて草が暴れている。芝を押しのけるように葉を広げ、光合成の原資を貪っている。
「これ、六月に抜いたのと同じ草ですね」
「ハマスゲ」
地下茎を全て取り除いたはずなのにまた繁殖している。
「世界的に有名な強害草」
いかにもそれっぽい名前だ。地下茎の先に球根を作るらしい。いくら地下茎を除去しても、その球根が地中に残りまた芽を出すと言う。
「そんなの、何で調べるんですか」
「雑草大全」
「どこで買うんですか」
「ヤフオク」
第一工場の天井スピーカーから音楽が聞こえてくる。坂本冬美の「夜桜お七」だった。工員の集中力を高める効果があるらしく、組立ラインの稼働時間には有線放送のBGMが流される。
一昨日、さとちゃんがスク〜ルの新譜を貸してくれた。「アボカド」というタイトルだ。ジャケット写真では、赤と黄のライフガードキャップを被った三人が、透明な防水ケースに包まれて波の上を漂っていた。
世界一周の船旅に飽きた女の子がデッキから身投げする。何もない海を漂う中で、本当に大切な人と出会う。そんな内容の歌詞だった。三人がサビで連呼する「アボカド、君に会いたいよ、たとえ溺れてもなお醬油」という歌声が、シンセサイザーでいくつもの音域に分解される。それぞれを平たく直線に伸ばすエフェクトが効いている。鼓膜の緩やかに吸引されてゆく感じが癖になりそうだ。
この曲は売れるかもしれないと思った。でもヒットチャートを調べたら百位以内にも入っていない。少し意外だった。まだその程度の知名度なのだと分かる。
「CD、良かったですよ」
「うん」
芝の合間の土に忌まわしくハマスゲが生えている。抜くには注意が必要だった。勢いをつけ過ぎると地下茎が芝を持ち上げてしまう。ゆっくり手繰り寄せるように引き抜く。暑くて気が滅入る。
事務所にいても仕事らしいものがない。敷地の売却も暗礁に乗り上げている。課長は毎日県外にまで車を走らせている。でも手応えひとつ摑めずに帰ってくる。買い手の業種に合わせて資料を何通りも作り、課長に渡した。誰でもいいから敷地を買ってくれと思うようになってきた。「もういらない」とある日言われた。
経費削減の指令が乱れ飛び、鉛筆一本ろくに買えない。デスクワークの社員には有給休暇が奨励されている。事務所の冷房費を減らすのが目的だ。総務課で今日出社しているのは、芝生の雑草を取りに来た二人と、敷地の買い手を探し歩く課長だけだった。
北東側の芝が伸びない。第一工場の陰に入ることが多く、日照が足りていないかもしれない。暑くなって芝の伸長に差が出始めた。酷いところは葉の色つやがなく、枯れそうに見える。
草を抜き終える。北側をメインにアラジンをまく。一仕事終えた感じで芝の上にへたりこむ。ぬるい潮風が思い付いたように振舞われ、肌をひと吹きした。
フェンスの向こうを何気なく眺める。車体工場からは今日も順調に車が産み落とされているらしい。できたての軽自動車がトレーラーで運ばれてゆく。
モータープールの一角に、大型の四輪駆動車が並べられているのが見えた。百台以上のまとまった数だ。普段は小型車ばかりが並んでいるはずなので目に付いた。大きな車にはどれも、うちで組み立てたエンジンが載っている。
エンジンばかり作っていると、それが一台残らず自動車に載せられることを時々忘れる。でかい車用のエンジンを組み立て、隣の工場に納期通り送り込む。そこまでが会社の仕事で、それ以上でも以下でもない。
「タイヤでけえ」
「ボデー無駄に頑丈」
燃費はいかにも悪そうだった。日本では売られていない車だろう。どこの国で走っているのか知らない。
「お義理でエンジン引き取ってもらってる」
さとちゃんが言う。
「盛者必衰」
また皮肉を言っているのかと思い横顔を窺う。少し違った。モータープールを眺めるロバみたいな眼はどこか物憂げに見える。第一工場から、坂本冬美の「夜叉海峡」が聞こえる。
一応聞いてみた。
「北側の芝、枯れませんかね」
「あかんかも」

居間のドアを開ける。朝から冷房が入り、部屋の空気が平たい。廊下との出来過ぎた温度差に夏を感じる。父がソファーで茶をすすっている。朝のNHKニュースが昨夜のNHKニュースをおさらいしている。
「おはよう」
昼夜の作業シフトを週ごと行き来した父にとって、休日は生活リズムを真逆に組み替える日だった。いつも遅くまで寝ていた。定年を迎え、夜勤という縛りがなくなったとき、父の一日の周期がどう落ち着くのか予測が難しかった。
父は早起きを選んだ。でも考えてみれば、一日二十四時間のそれぞれと深く付き合った父にとって、朝の六時に起きることが早起きに当たるのか疑わしかった。定年後の起床時間として「朝の六時を選んだ」という方が相応しいかもしれない。
父が不思議そうな目でこちらを見る。
「シャツのまとめ買いしたんかな」
「違う。去年貰って、今年も貰った」
二人の胸元でファイヤーマンが放水している。
「会社の人が遠征土産にくれるんじゃ」
「親切なんじゃな」
肘下ですとんと切れる袖を触って言う。
「七分袖って言うんかこれ、初めて着た」
気持ちええシャツじゃなあ——。エアコンが吹く涼風を、父は風通しのよい袖から存分に吸い込んでいる。
朝から暇そうに座る父を見るのがまだ慣れない。時間がなくて慌ただしい朝も、暢気に話し掛けてきたりする。
昔は違った。まず屈伸をしていた。母に毎朝作らせたシジミ汁をかき込んだ。鼻を鳴らして顔を洗い、大便をして、喉を激しく鳴らして歯を磨いた。最後に作業着を羽織った。朝食を食べながら見ると吐気がするくらいに元気だった。全てを無言のまま慌ただしくこなして出勤していた。父が働かなくなると同時、我が家の食卓からシジミ汁が消えた。
「哲司、十一チャンネル」
母が食卓に目玉焼きを置いて言った。
十一チャンネルに替える。父と似た歳のニュースキャスターが朝から張りのある声で仕切っていた。母はこの人のファンだ。血色がいいところ、気力に溢れて見えるところ、下ネタに品があるところがいいと言う。
「そこの封筒、ポストに出しといてくれんか」
だらりと足を伸ばして父が言う。食卓の隅に封書が置かれていた。宛名は村役場だ。切手もきちんと貼られている。
「いいよ」
六時四十七分。毎週水曜の最新エンタメウォッチ。
聞き覚えのある曲が流れる。
『今週は、スク〜ルの三人です』
アシスタントの女性が言う。海水浴場で行われたライブのVTRが映る。
二十代に見える男のファンが集まっている。大阪から駆け付けたというロン毛で眼鏡の男にマイクが向けられる。口から泡を飛ばして魅力を語る。「スク〜ルと我々スクオタとの距離が親よりも友達よりも妹よりも近いのが何より素晴らしい」と熱弁する。会場を上から俯瞰する映像が映る。みんな同じ格好だった。白い胸元にファイヤーマン、黒の七分袖。頭にはライフガードキャップ。
「やっぱりええわ。自分で出しに行くけん」
父は何気ない感じでそう言い直すと、テレビに顔を近づけた。
「このシャツ着た人いっぱいおるで」
VTRが終わる。
キャスターの顔が大きく映される。まだ誰も知らないスクープを伝えるときの、目を見開きつつも慎重めいた顔付きで言う。
『実はね、僕は以前から、たまたまスク〜ルを知っているんです。とってもいい曲、歌うんだ。絶対ブレイクするね、ホントに、間違いないから。テレビの前の皆さん、ぜひ注目して下さい』
最初から決まっていた台詞だろうか。違う気がする。宣伝とか、そういうことではなく、キャスターはただ感じたままを言葉にしたのだ。明快なところが一番いいと母は言う。

「異動の辞令が出た」
いきなり告げられる。
事務所からコンベヤの轟音が消えた。立ってもデスクに座っても、足許がむずむず落ち着かない朝だった。
「来月から組立ラインに移ってほしい」
エンジンの発注を止められた。在庫調整のため、今日から五日間発注をゼロにしたいと車体工場から伝えられたようだ。
馬力自慢のガソリン喰いが、全く売れなくなった。近頃モータープールに並ぶようになった無駄にでかい車のことだ。路面が悪い地域で需要があるうちはよかった。けれど低燃費の車に対する購入補助がドイツで成功すると、たちまち世界の流れになった。燃費の良い車に買い換えるだけで十万の補助金が出るというのだ。
でかい車は時代遅れと揶揄された。注文のキャンセルが続いた。作った車が行き場を失い、モータープールにあふれ返った。発注が再開されても以前の規模は見込めないらしい。期間雇用の従業員を八月末で全員雇い止めにすることが決まった。
「入社研修で、組立を習ったじゃろ」
「二週間やっていました」
エンジンの組立なんて、油が撥ねて目の周りがかぶれたことしか覚えていない。どうせ作業実習なので終われば二度とやることがないと、あのとき高を括っていた。
「ならいける。期間工が抜ける穴埋めを暫くやって欲しい」
何事にも予算が下りないから、総務課にいても仕事がないと言われる。随分前からそうだったと思う。
「芝生の養生も、中止でええじゃろう」
「緑化はいいんですか。敷地が売れたら——」
無意味な質問だと分かっていた。
「もっと、話がでかくなった」
言葉を慎重に選ぼうとする口調だ。その割に核心をたやすく晒しているあたりがこの総務課長らしかった。
ネットの掲示板に、新月機械の倒産を煽るスレッドが立つ。コスト競争に負け、小型エンジンの生産を海外に奪われたことが敗因と書かれた。自動車メーカーの下請けに安住し成長を怠ったと、経営の無能を指摘する書き込みが目立った。資金繰りは危ういに違いなかった。
九月に入ると寂しくなった。社員食堂が中止された。駐車場はがらがらになった。みんなで同じ色の作業着を着ていたはずなのに、トランプがごっそり引かれるように期間工だけがいなくなった。正社員は指で数えられる程しかいなかったようだ。会社は切り捨ての利く人間ばかりを取り揃えて消極的な保険をかけていたらしい。
組立ラインの前半工程に入らされた。自動機で組み上げられたエンジンの胴体がコンベヤに乗っかり、左から流れてくる。吸気用の太い配管や燃料供給パイプをボルトで組み付ける。電動のトルクレンチで一気にボルトを締め上げるのだ。重たいコンベヤの動く音が工場に淀んでいる。レンチのモーターの回転するきゅるんと高い音が、ラインのあちこちから聞こえてくる。
八月を過ぎても気温は依然として高く、工場は蒸し暑い。スポットクーラーが細長い冷風を体に吹き付けるけれど、風の当たる部分がひりつくだけで涼しくなんかない。知らぬ間にエンジンや部品と擦れているのか、袖や裾に黒い筋が走る。
「作業着汚すは下手の証」
実習でラインに立ったとき、隣り合った工員にそう言われた。四十代後半の男で髪はもじゃもじゃ、肌は脂ぎっていた。作業着だけは確かに美しかった。それを誇りにしているみたいだった。今は家で履歴書でも書いているのか。
有線のBGMが「アボカド」だ。直線的なボーカルが第一工場に満ちる。十一チャンネルのニュースキャスターが絶賛して以来、「アボカド」は売上が倍増しているらしい。
二分三十秒に一台。同じ周期で流れてくるエンジンに、同じ部品を組み付ける。繰り返し作業は思考が無駄に悲観へ走らないのがいいようだ。なるようになれ、なるようになる、なるようにしかならない。他に考えようがない。
「あ!」
ボルトが手から落ちる。エンジンバルブの奥の方に転がり落ちた。燃料パイプを組み付けるときに手元が狂ったのだ。細長いプラスドライバーを引摑む。隙間から差し込んでみる。取れそうになかった。このままエンジンを流したら大変なことになる。
ラインの緊急停止ボタンを押した。工場の全てが止まる。その圧力で空気が揺れる。トルクレンチの音が止む。緊急停止を示すパトライトが斜め前の設備で黄色く点滅する。わおわおとサイレンを発する。「アボカド」は相変わらず天井から降り注ぐ。「アボカド、君に会いたいよ、たとえ溺れてもなお醬油」のサビが、サイレンと共鳴する。残響のようにも祭囃子のようにも聞こえる。
「気を付けろ!」
作業長に怒鳴られる。
ボルト入りのエンジンがコンベヤから降ろされる。保全工の手でエンジンの上部が分解整備されるという。周りの工員が冷めた目でこちらを見る。
やがてラインが始動する。雑多な音が再び立ち込めて工場を泳ぎ回る。
「オイルフィルター良し、エキマニ良し」
力の抜けた声が右から聞こえる。組み付けた部品を指差確認し、次の工程にエンジンを送り出している。トルクレンチ片手に飄々と仕事をこなしている。作業着は少しも汚れていない。
でもどこか淋しげなのだ。俄かファンが増殖して、ライブチケットを取るのが難しくなった。近頃よくそんなことを言う。工場に流れる「アボカド」をどんな思いで聞くのだろう。

どれだけ叩き殺しても、また次の蚊が皮膚にとまる。潰れた蚊から溢れ出る自分の血で、何箇所か肌が赤い。
「あー痒い、痒い」
独り言がとまらない。
毎週木曜と金曜が休業日になった。周りはどこも忙しいのに、うちだけが静まり返っている。工場関係が集まるコンビナート地区では、危ない会社はそうして悪目立ちするらしい。休みが増えた分だけ給料を減らされて、所帯持ちの社員は苦しんでいる。
空き地で犬が吠えるみたいな寂しさで、芝刈機が音を立てている。工場が動かなくても芝は伸びるのだ。目の当たる南側の芝は腕白な育ち盛りらしく、不揃いな長さに伸びている。三センチに刈ってやらなくては芝生でなくなってしまう。
夕方なのに猛暑が和らいでくれない。おまけに藪蚊もどっさりわいて、脚も腕も痒くてたまらない。稲妻をぎっしり溜め込んで見える積乱雲が、西の空すぐそこに立ち上がっている。
この芝生は自分のものだ。そんなことを思ってみる。予算も全額切られて自費で養っているのだから正しい。正しくないとおかしい。会社がいつか破れても、ここには確かに芝がある。
ここでの仕事など、出来上がったエンジンの陰に埋もれて消えてしまう。最終的には内臓の一つとして自動車に組み込まれてジ・エンドだ。仕事の跡は何も残らない。達成感という意味では、会社の仕事はどれも似たようなものだろう。けれどこの芝生は違う。芝そのものとして、ここに末永く残る可能性を秘めている。ピラミッドにもなり得るかもしれない。
「こら!」
毒々しいまでの縞模様を身に纏った蚊を叩く。
北側が全くダメだ。特に北東部分が酷く、殆ど成っていない。葉の表面が黄色く褪せてきた。明日にも枯れ切ってしまいそうだ。夕立ひとつろくに降らない日が続いて、水も足りていなかった。とにかくアラジンをまく。肥料のやり過ぎか。他に手立てを知らない。
フェンスの向こうがますますおかしくなっている。でかい車がモータープールをさらに浸蝕している。今も細々と作り続けているが、結局は売るあてなく溜まっているようだ。新月機械を潰さないために無理やりエンジンを引き取り、在庫車を作っている。さとちゃんがいつか言っていた通りだった。
「何匹おるんじゃ」
潮風に鍛えられたかのようなやたら堅い蚊を力ずくで叩き潰す。
そのオタク野郎が芝生に来なくなった。週休四日の利を活かし、イベントの出待ちを強化しているらしい。ここでも俄かファンとの闘いになると言う。情報の網を広げ、スク〜ルのスケジュールを把握する。出待ちの最前列をどうにか死守しているそうだ。
スク〜ルが新譜を出した。「きんじとう」という曲名だ。CDショップで目にしてつい買ってしまった。「やっと会えたね、きんのじ。愛していたよ、きんのじ」とただ繰り返すだけの奇妙な歌詞だった。
今度のジャケット写真では白の化学防護服を身に纏っていた。どんな物質も透過させないタイベック素材を用いた細身の防護服に、頭からすっぽり覆われている。透明なシールドから顔をのぞかせている。微細なフィルターがついていそうな円筒状の黒い吸入器が口元にある。ちょうどこの空き地のような小さな芝生に立ち、キンチョールのスプレーを振り撒いている。
南側の芝を刈り揃えた。太陽の光を受けて緑色が鮮やかに映える。匍匐が土を覆い尽くすまでもう少しだった。視線を下げて眺めれば、公園の芝生みたいな緑一色に見えるかもしれない。芝生ブログにそんな写真があったのだ。地面に両手をついて屈んでみた。
芝の上を何かがモゾモゾ動いているのが見える。
悪寒が体を通り抜けた。
体長が二センチくらいで緑色。芝の色とよく似ているので目立たなかった。でも目を近づけると見えてしまった。
携帯を取り出す。ボタンを押す指が震える。ディスプレイに名前を探す。
『んー、どんなかたち?』
「イモムシみたい。手足がありません」
『何匹くらい?』
「数えたくありません」

朝食を食べないと、ラインに立っていられない。けれど疲れて食欲が湧かない。入社研修のときは春だったから、ここまで疲労は溜まらなかったはずだ。家族には何も伝えていない。けれど母が最近また朝からシジミ汁を作り始めた。
「どん臭せえんじゃな」
ソファーで父が茶を飲んでいる。NHKニュースを見ながら言う。
「作業着汚すは下手の証」
「誰かと同じこと言うとるが」
「常識じゃ」
替えの作業着がまだ手に入らないので、汚いけれど我慢するしかなかった。
「大学出たのに工員か」
「ほっとけ」
「学費が無駄じゃった」
一説によると、企業が出す求人の総数は二十年前も今もそんなに変わっていない。変わったのは大学生の数で、同じ間に五割増程になっている。だとすれば大学生の価値が相対的に下がったというだけの話だ。そんなことを教えても理解できないだろう。
父は今朝もあのシャツを着ている。醬油でもこぼしたのか、ファイヤーマンの下辺りに茶色い染みがついている。何がそんなに気に入ったのかよく分からない。
そのうち自分で新しいのを買いに行くかもしれなかった。昼間に「きんじとう」のCDを聴いているらしい。母が言っていた。居間のステレオを不慣れに操作して結構な音量を出すから鬱陶しいと。
「そう言えば、返事は出したん」
「何の?」
「役場に。このあいだ自分で出しに行くて言うとったが」
あああれか。父はのんびりとそう答える。
食卓に目玉焼きを置いた母がリモコンを手に取り、勝手に十一チャンネルに替える。
「ま・だ・じゃ」
「早よう出しねえ」
祖父に似ない大らかな性格の父だった。自分で言ったことをすぐに忘れ、暢気に笑っていたりする。粗野な祖父には手を焼いていたようだ。「顔を見るのも気が進まん」と漏らしていた。年に一度、やんわりと嫌がる家族を連れてお義理のように帰省していたけれど、田舎に寄り付くことを父自身好んでいるように見えなかった。役場になかなか返事を出さないのもそれと関係しているかもしれない。
父とよく似た歳のキャスターは、今朝もスタジオを駆け回るように最新情報を伝えている。日々膨大に発する言葉を覚えているだろうか。いつかの一言で、スク〜ルのファンがこんなところにも一人増えたようだ。
「わかっとる」
「家におっても、何もすることねえが」
息子が買ったCDを勝手に聴いているだけだ。
「そんなことねえ」

稼働開始のサイレンが鳴る。
「今日も一日ご安全に」
場内放送を切ると、作業長がスイッチを押す。作りかけのエンジンを乗せたコンベヤが動き出す。始動に費やされた電量がちょっとした轟音に置き替わり、一日が始まる。
さとちゃんはまた有休を取っていた。代わりに不機嫌そうな副作業長がトルクレンチを握っていた。ここは自由に休める総務とは違うけんと、昨日から愚痴を散らしている。さとちゃんをよく知らない人は、ラインの仕事がきつくて会社に来られなくなったかと心配する。スク〜ルの出待ちのために東京に行ったとは言えなかった。
有線のBGMがまた「きんじとう」を流す。あのニュースキャスターに続くようにして、「スク〜ルが好きだ」と公言する人が次々現れた。誰かがラジオで良いと言う。誰かがブログで褒める。「きんじとう」の売り場はそのたびにCDショップの奥から前に進む。今では最前列の中心を占めている。初のライブツアーが打ち出された。日本中のホールで行うというそのチケットは十分で完売した。最終日の東京ドームは三人の夢だったという。
解散の手前まで追い込まれていたらしい。五六年前からインディーズで活動を始めた。地方のライブイベントや防災訓練で地道に歌っていたそうだ。けれど売上に貢献したのは、長いあいだ一部のコアなアイドルファンと防災オタクだけだった。アイドルトリオは時代遅れと批判されていたという。名ばかりのベストアルバムを出して終りにする計画が立てられていたとウィキペディアで読んだ。
「あ!」
またボルトを落としてしまった。エンジンの内部に転がっていく。緊急停止ボタンに手が伸びる。
ボタンを押す指が止まる。
このままエンジンを流せばどうなるか。
誰にも見られていない。わざと放置したとは分からない。
ボルト入りのエンジンが車に載る。みんなが気付かなければどうなるだろう。どこかの国で不思議な音を立てるかもしれない。ピストンやバルブが内部で焼き付くかもしれない。爆発するかもしれない。
但しそれは時代遅れのエンジンだ。作っても、誰も買わない可能性大である。あのエンジンが回転することはない。動力を生み出す機会はきっと訪れない。だからそもそも何も起こらない。ならば何のために、今日もこの組立ラインが動いているのか、それ自体が分からなくなる。
試してみたくなった。他のみんなは分かっているのか——。
組立ラインは流れ続ける。忠実なコンベヤは、体を締め付けるような轟音を工場全体に張り巡らせ、全ての工員を従わせている。高みから「やっと会えたね、きんのじ。愛していたよ、きんのじ」と、祈りにも似たフレーズが繰り返し与えられるばかりだ。
コンベヤが二分後に止まる。生産活動の音が止まる。パトライトが黄色く点滅する。サイレンが鳴る。繰り返される「きんのじ」というフレーズの「きん」と、サイレンの音が同じ音域に重なり、互いが互いを増幅し合って聞こえる。
「何やっとるんじゃ!」
作業長に殴られた。
この会社しか拾ってくれなかった。時代の流れに取り残されようとするボンクラ会社だった。そうであったとしても、今ここに立つ自分もまた、就職活動の流れさえろくに読めないボンクラだったはずだ。忘れた振りをするのは良くない。
給料は間違いなく安い。ボーナスなんてまともに貰ったためしがない。ネットで無能と笑われている。ただ居心地がいいだけだ。自分は自分だと安心していられる。ここにいると理不尽な思いや陰湿な扱いに悩むことはない。むしろそういう冷たい世界から救い出して貰った。業績が冴えないところも、どうにも時代遅れなところも、あつらえ向きで悪くないと思っている。
「とんでもない不具合になるところじゃ!」
もう一度殴られた。
新月機械は真面目なエンジン屋だ。優秀な組立会社だ。こんな会社に入れてよかった。この会社の一員でいられてよかった。
新月機械は終りに向かって突き進んでいる。誰にも止められない。止める気もない。スク〜ルと同じようにはならない。あのニュースキャスターは今度こそ現れない。これではっきり分かった。終わらなければならない。

ヤフオクで買ったという殺虫剤のスプレーを、さとちゃんから渡されていた。商品名「瞬殺メビウス」は、どんな虫も一撃で仕留めると謳う強力なアメリカ製だ。芝全体にたっぷり振りまくように言われている。
芝の地表を窺う。イモムシが増えていたらどうしよう。気が狂ってしまいそうだ。殺虫剤をまく自信なんて全くない。
南半分を覆う緑に何匹も潜んでいるかもしれない。北半分の地表からひょっこりと顔を出してくるかもしれない。
膝から下が震える。スプレー缶を持つ手も震える。
虫は一匹もいなかった。
端まで隈なく調べてみたが、影も形もない。
肩の力が抜ける。気持ちがかなり安らかになる。このあいだ見たのは虫ではなかったのか。そんなことを思ってみる。
それでもメビウスをまかなければならない。もう一度気持ちを引き締めた。地中に潜んでいる可能性が高いからだ。管状に細長く伸びたノズルを地中に差し込む。あとはキャップを押して、薬剤を容赦なく噴射させればいい。
フェンスの向こうから楽しげな声が聞こえる。見知らぬカップルがモータープールの前に立ち、携帯で写真を撮っていた。日本では売っていない巨大な車が並ぶのを珍しく思ったのか。夕空と四駆車をバックにVサインを構えている。
鉄粉をいつもより多めに含んだ微風が辺りに漂う。南の夕空に薄い茜色がさらりと差している。芝の南側は青々としている。ここから見える全てが、淡くて優しい色合いに打ち解けていた。
ノズルを地面から抜いた。
スプレー缶はもとの重さのままだ。
殺虫剤を止すことにした。日本では認可されていない強力成分が含まれているので、芝に悪い負荷を与えかねない。枯れたら元も子もない。あのとき見たのはイモムシだった。でも数は少なかったはずだ。別の場所に移ってくれたのかもしれない。この真下に潜んでいるとしても、地表に出てこない限り害はない。
「グリーンじゃ」
北側は枯れた。南側は匍匐が土を覆い尽した。半分だけだが、ついに出来上がった。明日また芝を刈ってやろう。パターの練習だって何とかできそうな芝生が完成する。
「上出来じゃあ」
さとちゃんが言っていた。夏を越えたら冬に備え、また次の種を播くと。声真似をしてみる。
「ペレニアルライグラス」
通称冬芝。一年中この芝生を続けたかった。
体全体からすとんと力が抜けた。立ちっ放しで八時間働いた疲れが押し寄せてきた。緑の地面に横たわった。いつのまにか藪蚊もいなくなった。もう何の気兼ねも要らない。問違いは存在しない。
今はただこの芝の温かみを、背中で存分に味わえれば、それで充分なのだ——。

四輪駆動車走らせとる。
ハンドルはビッグアメリカンサイズで肩幅よりでけえ。シフトノブは野球のボールをそのまま黒お塗り潰したみたいじゃ。握ったときの中指と人差し指に沿おてギザギザの縫い目が入っとる。そんなに上等そうには見えんが、内装は何から何まで大振りでブラック一色じゃ。
どこに行けばいいのかよう分かっとらん。
町中をむやみに走り回っとる。一人じゃあねえらしい。助手席にあのタテベさんが座っとるが。二人同じような恰好じゃ。スタンプで押したようなリクルートスーツ。雰囲気的にデートは考えられんな。どうしてそこにおるのかは知らん。
タテベさんは苛立っとる。やがて喧嘩になる。
「どこに行きたいかも決められんが」
アクセルを無駄に吹かすけん、ガソリンが切れそうじゃ。
高速に乗った。
とりあえず乗ってみたという感じ。どの出口で下りればいいのかは分からん。すぐに下りとうて仕方がのうなる。どの出口も車でぼっけえ混み合うとるが。高速道路は環状になっとるらしい。しばらく走るとまた同じ出口に行き当たる。さっきと比べて渋滞は一メートル程しか前に進んどらん。高速を下りることができんが。
タテベさんは泣いとる。やがて喧嘩になる。
「どこに行き着くこともできんが」
アクセルを無駄に吹かすけん、ガソリンが切れそうじゃ。やっちもねえ。

目が覚めた。
既に夜の闇が訪れている。コンビナート地区には所々白やオレンジのライトが灯る。
背中に触れる芝が少しひんやりとしている。
満月が南の空に浮かんでいた。
輪郭は鋭く冴えて見えた。光が満ちているのに和やかさを感じた。薄墨のような影が地形を描いている。生物が存在しないことが不思議なくらい、その真円は命の気配で温かく目に映った。芝がほのかに照らし出されていた。静かだ。周りの工場はモノ作りを静かに続けている。胡坐をかいて月を見上げる。背筋が吸い寄せられるように伸びた。

朝の幹線道路はコンビナート地区に向かう車で賑わう。鉄粉でボデーが傷みやすいとか車上荒らしが多いとか、色々不満もあるらしい。それでも車で通勤するのは他のどんな手段よりも快適だろう。特に今朝みたいにしつこい雨のときは。
台風が近づいている。
近頃やけに台風が多い。九月の下旬だけでもう二つ目だ。朝から雨と風が酷い。大雨警報が出ている。今日は会社が休みになると思ったけれどならなかった。幹線道路のバス停に立つ。車からの水しぶきで作業着のズボンが濡れる。早くバスが来ないかと苛立つ。
三分遅れでやってきた。傘を閉じて後ろのドアから乗り込む。一番後ろの窓際に座る乗客の巨大なリュックサックに目が行く。
「あ」
互いに相手を指差す。
バスはゆっくりと進む。フロントガラスのワイパーが左右に忙しい。横の窓ガラスに雨滴が滲む。水かさを増した二級河川の橋を越えてゆくのがぼんやりと見えた。この川を境に、田圃ばかりだった道の両脇が賑やかになる。安っぽいマンションみたいな社宅がドミノの配列で立ち並ぶ。スーパーの駐車場は強気にだだっ広い。野菜のイラストを貼り付けた配送便が左折して入ってゆく。
「遠征ですか」
社宅の奥にあった製鉄所の病院は、赤字経営が続いて去年閉鎖された。
「じゃ」
「JRですか」
「飛行機止まっとる」
さとちゃんは大きなリュックを膝に抱えている。丸々と膨れ上がって見える。
「良かったですね」
試しに聞いてみた。
「何が?」
「大ブレイク」
う〜んと唸る。
「トウが立った」
フロントガラスの向こうに製鉄所が見える。北隣りの小高い丘と並び立つかたちで、バスの行く手を塞いでいる。
「新入りに追いやられる」
「うちの親父もその一人かも」
「後輩」
ここで作った鋼材が安値で飛ぶように売れた頃、海を次々埋め立てて製鉄所は規模を拡げた。雨に濡れた炉の頂きから鉄粉を含んだ煙が空に漂う。石炭ヤードや鉄を加工する建屋、何かを溜め込んだタンクなどが高炉の周囲にひしめき合っている。瀬戸内の密かな海に進水して敵地を目指す軍艦のようにも見える。
「今日はチケット取れたんですか」
「インストアライブなので不要」
早い者勝ちイベントだ。
「明日の十二時渋谷、十四時新宿」
夜通し待つつもりらしい。二つの会場を二時間差で押えるとすれば、そこには確かに通じる仲間が存在するのだろう。それだけやっても入れるかどうか分からないという。今の人気でインストアライブを開くこと自体が無謀なはずだ。主催する側も動員を正確に予測できないでいるらしい。
「会社やばいですね」
道路は左方向にそれる。やがて丘を潜り抜けるトンネルに進む。オレンジ色の灯りが窓の雨滴を光らせる。
「潰れたらどうしますか」
さとちゃんの横顔をオレンジ色の筋が横切る。黒い闇がそれに続く。問いを頭の中で転がして眺めているように見える。
「どうしてそんなこと聞くの?」
一言だけ返してくれた。
「寂しいなあと思って」
「第二新卒」
リュックサックのポケットをもぞもぞ探っている。暗くて中身がよく見えていないみたいだ。
財布を摑むと、中から四角い紙きれを取り出す。
「じゃーん」
見せつける。
「おお」
売れない頃からスク〜ルを支えたファンにとって、それは到達点とも、区切りとも言えそうなひとつのプラチナチケットだった。
「東京ドームライブ」
「よく取れましたね」
「ヤフオクで二十万!」
もうお金がありません!
最後にそう付け加えたさとちゃんは笑顔だった。やや反則気味に渋い。引き立てたオレンジの光は、闇を抜け切るまでずっと等間隔に現われた。
バスがトンネルを出た。

正門の前、傘を差した女性が立っている。
タテベさんだ。今日は一人らしい。
この前見かけたときと同じスーツだ。新月機械の建物をじっと見ている。まさかうちの会社の面接を受けようとしているのか。まだ内定の二文字にありつけていないのか。
どんな目でこの会社を見る。この会社はどのように映る。ここで何を始めたい。まだ終ることも始めることもできないのは辛いだろう。就活をもう一度やるのはお断りだ。でもタテベさんの立つ位置が少し羨ましくもある。
この会社はもうすぐ終るけん、やめといた方がええよ——。
忠告するまでもなかった。向きを変え去って行く。
透明な傘と潔い背中が雨の向こうに消える。ポニーテールは測ったような正確さで垂れ下がっていた。すらりと背筋が伸びている。この会社に何も見出さなかったとすればそれで正しい。自分を誇りに思えばいい。ただ静かに見送ることしかできない。擦り足で半歩前に進んでみる。作業着のズボンは裾が雨に濡れて変色している。汚れもひどい。靴下から雨水が染み込み肌を濡らすのが不快で、足を止める。
近頃同じ夢をよく見る。
タテベさんとドライブをしている夢だ。
いつも二人で行き先に困っている。喧嘩になったり泣かれたりする。やりきれなくなってアクセルを吹かすのだ。ガソリンが切れる。夢はそのあたりで終わる。
目覚めていつもこう思う。ドライブの旅は悪くなかったと。行き先なんてはじめから何も考えていなかったような気がする。特に楽しいわけでもないけれど、これからずっと覚えていてもいい。タテベさんには指一本触れられそうにないけれど、また同じ夢を見てもいい。
何故なら車を持っていないから。
旅に出る機会など、そうそう訪れたりはしないから。

事務所に一人呼び出されていた作業長が戻ってきた。ラインサイドを足早で歩き、工員みんなに告げた。
「作業を止めて大会議室に移動」
コンベヤが停止する。全ての音が止む。今日はBGMも同時に消された。
第一工場二階の海側、社で一番大きな会議室に入る。窓の外は雨に煙る。モヤの彼方に製鉄所の建物が見える。既に社長以下の幹部、管理職、事務方の社員が大勢集まっていた。汗臭い連中に座る椅子はなく、会議室の璧際に並んで整列した。
社長が演壇から深々と頭を下げる。会議室は静まり返る。
「力及ばず」
急激な減産で資金が回らなくなった。八月の部品代の支払を倒してしまった。九月分も払えそうにないという。バブルの頃からの利子付き債務も膨らむ一方で、会社を整理する他に方策がなくなったようだ。会社の処遇はこれから具体的に決められる。社員に無期限の自宅待機が言い渡された。
「とりあえず以上です」
集会は打ち切られた。質疑応答もないままに解散が告げられる。壁際に立つ人たちが騒ぎ始めた。代表したのは作業長だ。つかつか演壇に近づき、社長に問い質す。
「今日の生産はどうすればええ」
社長は口をぽかんと開ける。もう作る必要はないと答える。作業長は食い下がる。
「まだ今日の台数が残っとる」
珍妙なやり取りにも聞こえる。椅子に座る人から失笑が漏れる。
組立ラインに三日立てば分かるだろう。エンジンを納期通り、日々コンスタントに作り続けることは、筋肉と頭を酷使する一大事だ。地球が今日滅びるとすればどうだ。人類はたぶんこの作業長と似たことを真剣に考えるはずだ。
「納期に遅れたらまずかろう」
「大丈夫です」
憤然と言い返す作業長を社長が宥めている。
車体工場からすれば、エンジンが入ってこない方が好都合だろう。義理で続けた四駆車の生産をやめればいい。大量の在庫車が減るのを待てば済む。その間に別の安い会社を見繕い、エンジンを作らせるだけのことだ。
「供給停止を認めてもらいました」
苦し紛れにそう漏らす。
怒った工員の誰かがペタンクの金属球を社長に投げた。社長は咄嗟に逃げる。後ろの壁にかけていた社旗の真ん中に命中した。社旗は床に落ちた。
「十点」
笑い声が起こる。明日の昼休み、食堂横の休憩広場で、毎年恒例の社員レクリエーション大会を行うことになっていた。金が無いなりに景品さえ用意されていた。今年の競技はペタンクと的当てゲームだった。
「会社は何やっとった!」
投げやりな笑いが鎮まると、工員から次々に怒号が上がる。
「無能!」
管理職はみんな腕を組んで俯いている。演壇から、社長は極めて無力な眼差しで社員を眺めている。
「会社の再建のために力を尽くしましたが叶いませんでした」
「ふざけるな!」
「新しい取引先を開拓することが出来なかった」
「死ね!」
罵詈雑言を浴びながら社長が退出する。
「待たんか!」
一人の工員が社長に詰め寄る。殴りかかるような勢いだ。社長を守るため、誰かが前に立ち塞がる。総務課長だった。必死の形相だ。敷地の売却交渉では弱腰だった課長が、今この場所で強気にも見えるのがおかしかった。
怒鳴る相手を失くした社員が会議室を出て散らばる。白けた雰囲気と、誰かが投げ捨てた円形の社章が後に残る。
会議室の真下で、敢然と轟音が鳴り始める。
誰かがコンベヤを動かしたのか。エンジン生産を再開しようとしたのか。
トルクレンチのきゅるんと高い音も聞こえる。パトライトが光るときのサイレンも鳴る。誰かが始めた拍手の音に他の誰かも呼応して、その輪が広がる。
やがて音が止む。押し問答の声が聞こえる。じきにそれも止んだ。
廊下で人事部長に呼び止められた。
「せっかく入社してもらったばかりなのに、こんなことになって申し訳ない。君はまだ若いから、車体の方に今から雇ってもらえるよう私から話をしてみるよ。一人くらいなら何とかなるから」
勿体ない申し出だった。演壇の端に座っているとき、力が抜け切ったように項垂れているのが見えた。東京育ちの人事部長は誠実な人だ。就活の面接でざっくばらんな話で盛り上がり、好感を持った。でも車体工場から天下りしてきた人だった。
「工場はもういいです」
本心だった。先のことはまだ考えられない。
「ガハハハハ!」
階下から壊れた笑い声が聞こえる。
「芝生がおかしゅうなっとるでえ。ダメになっとるでえ」
階段を降りた。気持ちが次第に落ち込んでくる。予感していたよりも遥かにつまらない幕切れだった。何故か駆け足になっている。第一工場を出る。敷地の南側、フェンスの手前へ。
「会社によう似とるがあ」
社長の声だった。このところの長雨で、また水没したのか。だとしても今すぐ水取りを始めるまでの話だ。会社は終わっても芝生は終わらない。呆れるほど分かりやすい理屈だ。
傘がない。雨に濡れる。風がきつい。台風はどこまで近づいた。さとちゃんは今どこだろう。タテベさんは今どこだろう。父はいつ返事を出すだろう。答えは何だっていい。全てが無性につまらない。
芝生の前に立つと、全身の毛が逆立った。体が一気に震え出す。
芝生にイモムシが湧いていた。芝を一面喰い尽すかのように、びっしりと隙間なく蠢いている。
後ずさりする。
膝がガクガクと震える。
会社が、社長が、社員が、今この敷地にあるもの全てが味気なくこの目に映る。美学なんてどこにもなかった。誇りに溢れた一瞬で、時間が永遠に止まるわけでもなかった。芝生も例外ではなかった。イモムシに蝕まれてゆくその姿は、ひたすら惨めに見えるだけで下らなかった。
終るとは、こういうことなのか。こんなにしょうもないことなのか。
「やっちもねえ」
濡れそぼる地面に膝をつく。
「あー、やっちもねえ」
枯れ果てた北側の残骸をむんずと握る。引っ張ると根元からぼろぼろと抜ける。そこに一匹のイモムシが紛れ込んでいた。気持ち悪くて、フェンスの向こう側めがけて思い切り投げつける。

ずっとベッドに潜んでいられる。
十月に入ると朝は途端に涼しくなった。夏がいつまでも続くと思っていたけれど違った。朝の寝坊が心地いい。洗いたてのシーツにくるまるとなおさらだ。布団の中の空気を柔らかくほぐしてくれる。肌ざわりのいい温もりで包んでくれる。この心地良さが堪らないと気付いたのは社会人になってからだ。
今日のパジャマは七分袖だ。胸元には下手くそなファイヤーマンの絵が描かれている。もう三着目はもらえそうにない。
昨夜初めてスク〜ルをテレビで見た。夜八時の六チャンネル、生放送の歌番組で。
それが初めての出演だったらしい。テレビ局のスタジオで歌うのではない。ライブ会場からの生中継だ。
曲はもちろん「きんじとう」だ。ステージの三人はジャケット写真と同じ白の化学防護服姿だった。吸入器のついたシールドは着けていない。ステージの一段高い床にきちんと並べて置かれている。
観客もみんな化学防護服を着ていた。満員だ。ちゃんとシールドも被っている。リズムに合わせて右腕を振る。ほぼ垂直に近い角度に突き上げて振る。タイベック素材から溢れ出た男の熱気が客席に漲っている。
家族三人でぼんやりと見ていた。口を半開きにして、父は喉の少し上辺りで「きんのじ」と唱えているように見えた。母は一言「変な客ばあじゃ」とだけ言った。
今朝はまだ感傷的じゃあねえよな。でも心地いい布団に長ういたら、いつか厄介な感傷に捕まるが。いっつもそう。それぐれえは分かっとる。でもまだしばらくはここを出とうないんじゃ。
そう思って寝ていたら、いきなり携帯が震える。
バイブレーションが机の上で刻む音は、着信音なんかよりも遥かに人工的で唐突で、とにかく気色が悪い。振動が止むまで無視してみた。鎮まった。でも五分後にまたかかってきた。
舌打ちして携帯に手を伸ばす。総務課長の名前がディスプレイに踊る。
『芝生がひどいことになっとるで』
残務整理を命じられた管理職は、無給に近い形で今も出勤を続けている。
「分かってます」
思い出したくなかった。あの日以来、恐くてとても近づくことができなかった。
『後始末に来て欲しいんじゃが』
どうしようもないため息が出る。虫の数はもっと増えているかもしれない。
「佐藤さんはいないんですか。あの人の方が芝生に詳しいです」
責任を全て押し付けたかった。彼が芝生の世話に来なくなったせいです——。
あの日バスの中で会って以来、さとちゃんと話をしていない。元気だろうか。会社が潰れたことは知っているのか。まさかとは思うが、早速職探しを始めているのだろうか。そう考えると急に取り残された気分になる。
『どこにいるのか分からん。メールをしたら変な返事が返ってきた。何じゃったかなあ、オークションで買った化学防護服を引き取りに行く、とかそんなこと』
何の心配もいらなそうだ。
「分かりました。明日行きます。今日は寝させて下さい」
またため息が出た。そのまま通話を切る。
携帯を放り出す。
また深い眠りに呼び込まれ従う。

サイドシートにさとちゃん座っとる。
真っ白の化学防護服を身に着けとるが。変なの。顔面のシールドまでかっちり下しとるから表情は見えん。いきなり頭から塩酸ぶっかけられても大丈夫じゃろう。そんな恰好でシートに座り、小さく踊っとる。
防護服の左手がダッシュボードに伸びる。カーステレオのボリュームをぎゅーんと上げよる。きんのじきんのじとやかましい。
わいも同じ防護服を着とるが。運転に支障が出んよう、シールドだけは外しとる。防護服の中は通気性が悪ろうて蒸れよる。でえれえ気持ち悪りい。
右手をダッシュボードに伸ばす。エアコンをきつうする。目的地まであとどれくらいじゃ。そもそもインストアライブの場所をはっきりと聞かされとらんが。
いきなりガソリン切れよったが。エンジンの力が消え失せる。ゆっくり減速しよる。仕方ねえんで路肩に停車させる。
そこはだだっ広い原野みたいなところじゃ。民家も店もろくに見当たらん。ガソリンスタンドなんてありそうにねえ。
途方に暮れる。インストアライブには間に合わんじゃろう。家に帰ることもできんじゃろう。むさ苦しい化学防護服を脱ぐことさえできんじゃろう。
さとちゃんがノートパソコン開きよった。モバイル通信の受信機を横に差し込んどる。ネットに繫ぐんじゃろうか。電波の拾いやすい場所を探して歩いとる。何をやってるんですか? 
「ヤフオク」
「何買うんですか?」
「レギュラー満タン」
頭から塩酸ぶっかけられても大丈夫そうな格好でガソリンの取引始めとる。

七分袖のシャツを脱ぎ捨てる。
寝汗をたっぷり吸い込んだ生地は湿っている。ファイヤーマンのホースから湯気でも立ってきそうだ。汚れたついでにもう一度シャツを手に取り、腋の汗を拭う。
何を着て行こうかなと迷う。作業着では仕事に行くみたいで変だ。でもジーンズにポロシャツみたいな装いで正門をくぐるのは気が引ける。
二日間、布団にくるまれていた。睡眠を取り過ぎて、逆に頭が冴えてこない。体がむず痒い。小指の先であちこち撫でられているみたいだ。家を出る前にひとしきりシャワーを浴びたい。
部屋を出る。廊下の西向きの窓から色の濃い青空が見える。ここから見える全ての輪郭が朝日に促され、鮮明に立ち上がっている。六時半だ。時計を見なくても分かる。
食卓で父がシジミ汁を啜っている。椀を口に付け、顎をゆっくりと上げる。椀の漆黒に食卓灯の白い光が集まる。
「どこ行くん?」
父の席以外には何も置かれていない。
「東京ドームライブ」
「アホか」
「わいが出掛けて何が悪い」
やたらとポケットが多いベストを羽織っている。遠出をするときに高齢者がよく着そうなカーキ色だ。外出することは本当らしい。
「いきなり、行ってくるとか言い出して」
母が父の前に目玉焼きを置いて言う。
「哲司、あんたも食べるん?」
「じゃ」
「おめえこそ早よう起きてどこ行くん」
「会社」
湯気をたてたシジミ汁が目の前に置かれる。
布製の赤いスーツケースは、母が去年友達と釜山を旅行するときに買ったものだ。父の代わりに引いてやる。歩道の舗装を転がる感じはそれなりに重い。
幹線道路は今朝もコンビナートに向かう車で賑わう。新月機械が消えた分だけ車の量は減っているはずなのだが、何の変化も影響も見て取れない。その程度の会社だったのだから当たり前だ。
二人とも車を持っていない。「車ばっかり組み立てとったら車なんて恐あて乗れんようになる」。父はよくそんなことを言っていた。今なら分かる気がする。でも本当はただ維持費が惜しいだけだ。もともと車に興味なんてなかった。
腰を少し折り曲げて父は歩く。二人してゆっくりとバス停に向かう。
「泊まるつもりなん?」
「じゃ」
宿は、と聞くと「民宿」と答えた。中学の同級生がやっていると言う。
「ここにおっても退屈するけん」
軽く軽く言おうとするのが逆に耳障りだ。
「腰やられるが」
「そんな格好して何しに行くんじゃ」
父がじろりとした目付きで言い返す。朝からずっと怪訝な視線を寄越してくる。たぶん似たような眼つきで探り合いをしている。
作業着の上下は、結局新しいのが手に入らなくて汚れたままだ。
「仕事」
「工場はもう止まっとろう」
「他にもやることあるけん」
「こんな朝から行かんといけんのか」
路線バスが西から近づいてくる。
「返事、何て書いたん」
乗る前に聞いておいてやろうと思った。
「生存、とか書いたん」
「アホか」

雲ひとつない秋晴れの朝だ。左右の田圃が黄金に色付いている。二級河川の橋を渡る。
社宅やスーパーで賑わう一帯。降車ボタンは押されていないがバスが停まる。工員らしい人が乗り込んでくる。
バス停の向こうには、飲み屋やスナックが集まるちょっとした繁華街があった。シャッターを閉めきったままの店が殆どだ。作業上がりの工員で賑わったのは何十年も前の話らしい。
父は静かにその辺りを見ている。
「なあ」
唐突な興味が湧いた。
「昔はこの辺で遊んどったん」
「うん」
バスが再び走り出す。スピードが上がる。
「じゃろうなあ」
「昔はあそこに映画館が建っとった」
ニューヨークシチーという名のパチンコ屋を指差して父が言う。何度か入ったけれど一向に当りの出ない胡散臭い店だった。二年ほど前に潰れてそのままだ。
「へえ、知らんかった。賑やかじゃったんじゃな」
過去を覗き込んでいるのか、父の眼に奥行きが加わる。
「山奥の田舎者やったけん、なんか楽しかったなあ」
フロントガラスの向こうに製鉄所が見える。昔、周囲の町からこんな父と似た若い人を沢山吸い寄せて、コンビナートは大きくなった。
「山奥から出てきて良かったか」
吸い寄せられてやって来たその日、父はこの町で何を始めたのだろう。
「良かったような気もするけど」
バスがトンネルに入る。
「よう考えたら、会社に住んどるようなもんじゃったかも」
日の光を知らない闇と人工の光が、交互に父の横顔を刻んでゆく。言葉を待つことにした。二人の体を同じ暗さと明るさが通り過ぎてゆく。このトンネルが嫌いではなかった。暫く黙りこんだ後、父は口笛を吹くみたいにさらりと言った。
「ここはわいの町じゃなかったな」
バスがトンネルを抜けた。
眩い陽光が眼球の真上で踊る。群青色の海が道路の右に接する。車体工場の白い建物が、左の車窓を勢いよく流れて行く。潔い青色が空一面に掲げられ、目に見えるもの全てが輝いている。
「哲司、ちょっと田舎に行ってくるわ」
今さら言われなくても分かっている。
「返事なら郵送で出せばよかろう」
海沿いの道を東に進む。
「役場に文句の一つも言うたらんといかん」
父が鞄から封筒を取り出す。村役場の名が書かれたあの封筒だ。
「しょうもねえことするなってな」
海側の窓を開ける。潮臭い風が車内に入り込む。紙飛行機でも飛ばすように、父は封筒を海に向かって投げた。
倉田庄一の死を確定させるはずの封筒が、対向車の巻き上げる風に舞って少しずつ海に近づく。やがて見えなくなった。
「返事は出さんでいいの?」
高校の校舎みたいな車輛運搬船が右斜め前方に見える。小さなペンギンが世界を夢見て吸い込まれてゆくのが見える。バスはモータープールに突き当り左に曲がる。
「もう死んどるんじゃ」
ポケットで携帯が震えている。
図体のでかいペンギンが立ち並ぶ一角を横切る。色とりどりの車体が車窓の右を流れてゆく。その数は以前から殆ど減っているように見えない。
車体工場の前でバスが停まる。作業着を着た三人がおりる。
「もう一回死なせることはないじゃろ」
何がそんなに嬉しいのだろう。笑いが止まらないときみたいに躊躇いのない皺を、父は顔全体に拵える。
「あんた、田舎に何しに行くん」
「他に行くところなんてなかろう。帰るところなんてなかろう」
携帯は尻のポケットで震え続けている。
「墓参りがしとうなっただけじゃ」
さっきから気色が悪いのは尻に響くこの振動のせいに違いない。取り出してディスプレイを確かめる。「家」と表示されている。
『哲司か。お父さんおるなら代わって』
急ぎの用だろうか。ベストにひっつく数え切れないほどのポケットのどこかに父の携帯は入っているはずだ。でも鈍感だから着信に気付いていないのだろう。
「もしもし」
父が電話の向こうに応じる。でかい声だ。
バスが動き出す。その前に運転手がちらりとこちらを見ていた。
「封筒?」
T字路に近づく。前方にフェンスが見える。LEDの信号は赤だ。信号待ちの車が何台か並ぶ。その列の尻にバスが着く。
「はあ、中身が間違っとる?」
「お客さん、通話は禁止ですよ」
信号が青に変わる。前の車が動き出す。続いてバスも発進する。右折のウインカーを出したのか、運転席の辺りからカチカチと聞こえる。
運転手がハンドルを切る。左側の景色が、メリーゴーランドの馬と同じ楕円に流れる。
その速い流れの中に見た。一瞬だけ見えた。
白の化学防護服だ。フェンスの向こうに立っていた。左手のスプレー缶が日の光を強く反射していた。キンチョールなんかじゃない。きっと強力なメビウスだ。ためらいなく振りまいていた。
「そんな紙いらん」
「通話禁止!」
勢いを込めて降車ボタンを押す。
「破って捨てたらええが」
「おい、携帯返しねえ」
旱押しクイズのように明快なブザーがピンポンと鳴る。壁中に取り付けられたボタンのランプが一斉に赤く灯る。バス停に停まる。
                              〈了〉



書誌情報
タイトル  『かがやき』
著者    馳平啓樹
刊行日   2019年9月9日頃
価格    1600円+税
ISBN  978-4-909758-02-6
判型    四六判(128mm×188mm)/264P
製本    上製
装幀    コバヤシタケシ
装画    高杉千明

目次
かがやき
梨の味
クチナシ
きんのじ
あとがき

著者プロフィール
馳平啓樹(はせひら・ひろき)
小説家。1979年大阪府に生まれ、奈良県にて育つ。京都大学法学部卒業。2011年、「きんのじ」で文學界新人賞を受賞し、作家活動を開始。製造業に従事する傍ら、独自の目線で小説を発表し続けている。

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