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日記(4/22-24)

パーソナルトレーニング/「種目」という外国語/集中力とは/投票・選挙/オオゼキ/長谷川あかりの餃子/朝のカフェラテ/美味しいとは何か/原体験化しているあの子たち/落ち着くグッズ/ビジョンや大志がない

4月22日(土)

昨日の夜は2回目のパーソナルトレーニング。マンションの1室のような狭い部屋で、入ると誰かの汗とアルコールが混ざった匂いがした。アルコールで匂いは消えず、むしろ強調される。5分前に来てくださいと言われていたので、きっと直前まで誰かがいたのだろう。からだはないけど匂いはある。いまちょうど香りの本を読んでいる。匂いは粒子で、細胞で、ひとの一部で、それはいったいなんなんだろう。ここにはわたしと、トレーナーと、知らない誰かがきっといる。

ここでは、各トレーニングを「種目」と言う。運動会ぶりに聞く言葉だ、それぞれのジャンルや領域で使われる語彙を知るのは外国の言葉を知るのと似ている。種目という言葉は分類や体系があってこその言葉なので、きっとものすごい種類のトレーニングがあるんだろうなとか。連想が広がる。

今のところ、特におもりのついた銀色の横長い棒を垂直に下げる背中のトレーニングが気に入っている。背筋がしゃんとして、やるたびにみるみる姿勢が良くなる気がしてしまう。

ちょっとした「工夫」や「イメージ」によって負荷や感覚が変わる。先生の言う通りに、たとえば「小指に力を入れる」だけで二の腕への負荷が上がる「気が」するし、ひじをお腹のほうへぐっと寄せる「イメージ」を持つだけで丹田あたりが脇に拡がる感覚「になる」。

先生はやたら褒める。「柔軟性がありますね!」「これはなかなか強度の高い種別ですよ!」「よくできますね!」「女性で(と、わざわざ言わなくていいと思うけど)これができるのはすばらしいです!」などなど。日常生活でわたしたちはストレートにしかもパーソナルにこんなに褒められない。だからみんな続くのかとも思う。

次々現れるいろいろな器具や(1つの種目のなかだけでも、器具を加えることでバリエーションが増える)リアルタイムで指摘されるできていない部分、コツ、ポイント。さらに、お囃子で調子を取るように「ファイト!ファイト!」「ナイス!」「ッシュ!(聞き取れない)」と真横で言ってくる感じ。集中できる環境とは何か。習得するとは何か。ある意味頭を使わずに次へ次へ進むには何が必要なのか。そういうことを考えながら30秒のプランクに耐えている。

ところで今日は土曜日で、昼間はずっと樹木医と街路樹の記事を書いていた。街路樹のWikiが面白かった。すぐに夕方になったので渋谷に髪を切りに行ってさっぱりした。ワイヤレスイヤホンで坂本龍一ばかり最近聴いている。alvaa notoという人とのアルバムが好き。

4月23日(日)

午前中、夫が投票に行くと言うので一緒に幡ヶ谷へ。電車の中で渋谷区長候補者の経歴や公約を読む。現職のほうがつい具体的なことを書いているように見える。現職じゃない人は、これまで何をしてきたかも書いてもらった方が思いが伝わるし選びやすいねと夫と話す。

駅を出て、人の顔で埋め尽くされたカラフルな選挙ポスター看板を眺める。去年の参院選で友達のポスター貼りをほんの少し手伝った時、そのアナログさに驚いた。だからこの今見ているポスターたちも、1枚1枚、きっと手貼りだ。渋谷区はずいぶん多様な人が出ているという印象。

投票所に行く前、とても久しぶりにパドラーズコーヒーに寄る。ギャラリーで松島さんの友達のマグショップというチームがマグカップや焼き物、トートバッグの展示をしていた。持ち手と本体?の素材の異なる、正方形に近い可愛いトートバッグを購入。(仕事を始めて数年経った頃、トートバッグの便利さと愛らしさに目覚めた。それまではトートバッグなんてシンプル過ぎてださいと勘違いしていた。トートバッグは素晴らしい。ノベルティで配られるようなぺらぺらのものも、帆布の厚いものも、コットン100パーセントのものも、柿渋染めとかSIWAとかも、どれもそれぞれに素敵だ。トートバッグはもともとは氷を運ぶために開発された説があるのも面白い。運び屋で無骨な佇まい)

買い物をしながら松島さんと渋谷の選挙やまちづくりについて話す。選挙の日っぽくてなかなかいいなと思う一方で、初台緑道の樹木伐採の話は、昨日わたしがちょうどつくっていた記事のテーマでもあり、自分の仕事が何かに具体的に加担していないか、ぞわっとした。はじめてこういうふうにリアリティを持って考えた。ものごとの無限に多角的な側面に思いを馳せ切ることは難しいけど、そんな姿勢を持ち続けることはできる。そこを諦めないこと。

ということで近所の小学校で夫は一票を投じ(わたしは調布で)お店で前田と少しだけおしゃべりして、屋上で午後からの過ごし方を検討する。二人とも何も食べていなくてお腹がぺこぺこだった、とりあえず新しくできたオオゼキに行く。

調布のオオゼキは開店直後だからなんなのか、BGMがなくて静か。いつも元気な下北沢のオオゼキしか知らないので意外に思ったが、じゃあ下北沢店がBGMがあるのかと言われると自信はない。イメージ。長谷川あかりの餃子とおつまみをつくるため、豆腐、大葉、エビ、アボカド、餃子の皮を買う。

家で早速お酒を飲みながらごはんをつくる。空腹過ぎたことと最近お酒を飲んでなかったことの修行不足なのかすぐ酔っ払う。長谷川あかりのレシピ、味はとてもおいしかったけど皮選びに失敗したのか、具材が飛び出てぐずぐずの餃子の皮入りスープみたいになる。おいしいからいいけど。買ってきたワインは飲めず、早々に眠る。

4月24日(月)

朝起きてすぐに電車に乗る。久々の満員電車で最近読んでいる「美味しいとは何か」。1章は、五感と味の関わりについて。一説によると、五感は低級と高級に分かれる。前者は味覚や触覚、後者は視覚や聴覚など。生死を分けるための機能か、動物的な機能か、知性と絡む機能か、が分け方のポイントらしいがそんなことはないよね(だってわたしたちは目の前のトラックが来たことを視覚と聴覚で察知して、危険を回避するよね、とか)という話。舌の味蕾の位置関係によって味の違いを判断してるのは古い説!で、味覚は視覚と聴覚と触覚全てが関与していることを示す実験の話など。

今日の行き先は代々木のほう。仕事の研修に参加する。直接の最寄駅ではなく代々木八幡で降りて、リトルナップに寄る。近所に住んでいた頃にいつも頼んでいたブラウニーとラテを頼んで外のベンチで飲んだ。緊張している。なぜなら今日は40人前後の生身の人間とたくさん話すからで、普段引きこもってる身からするととてもエネルギーを使う。なにか頑張りすぎること、気を張りすぎることが目に見えているので、少しでも落ち着こうとリトルナップ。今日も入口に犬がいた。トイレを借りたら2011年4月のDJイベントのフライヤーがあった。NEWPORTも参加していた。

会場付近をうろうろしていると後ろから声をかけられ、ふじさんだった。くすんだ青いトレーナーを着たふじさんと中に入る。緊張する場所に行く時、はじめに見知った安心する人と遭遇するのは幸先がいい。始まるまで、ふじさんと落ち着くグッズについて話す。ふじさんは硬い椅子に敷くミニクッションのようなものを持参していて羨ましい。わたしは今回は大きめのストールだけだが、いつもは心のそわそわと身体的な多動対策として、ストレッチボールやマッサージグッズを持ってくる。

午前中はくみさんからこの20年の話を聞いた。キラキラした学生への気持ち。インターネット的まぜこぜ。名前のつかない社会課題。格差ではなく社会の分断に眼を向けること。そんな分断を「なめらかに」する活動について。震災後の「日常」を生み出すこと。そんな話がわたしは印象に残っている。

こういう多くの人たちと話すときは、つい彼らの持つパッションやエネルギーに引け目を感じてしまう。劣等感や気後れする感情の蓋をオープンにし過ぎないよう守りに入り、いかにこっそり過ごせるかに集中してしまう。のだけど、くみさんの話はそんな卑屈なわたしの守りを開いてくれるようなものだった。一貫して個を起点にした話ぶりだったことや、特に「名前のない課題」に向き合おうとしていた経過を知れたことがよかったのかもしれない。

話を聞きながらいろいろな子が思い出された。保健室にいた絵の上手なのぶこちゃん。マスカラの研究をしていたギャルの幸子と仲間たち、喧嘩の申し込み方やライターの付け方を教えてくれたヤンキーのかけるんと仲間たち。いつも大胆に歩く佐々木。無理無理絶対無理といろんなことを始めから諦める麻衣。みなみの作文。家出をした萌。そういうひとりひとりとの記憶がやるせなさと希望のどちらもを抱かせてくれている。その後、大人になって出会ったちょっと気になる子たちが連綿と続いていき、いまの仕事につながっている。ただただそういうリアルな思い出だけがわたしの原動力なのに、すぐにわたしは見失う。

大志もビジョンも使命感もない。それでいいのに、持たなければいけないように感じてしまう、そんなことはないはずなのに。そういうことなので、やっぱり保守的な身構えをしてしまうところは1日過ごしても変えられなかった。ここはほんとうにわたしの課題だと思う。


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