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地方へ移住して起業とかするつもりなら知っておくといい概念:その2

「無謬の目的化」

①よく「行政が改革に後ろ向きなのは、幹部がリスクを取りたがらないから」と言われているが、これだと幹部がただのヘタレに聞こえる。ちょっとこれはあんまりなので、少し補足する。ある1つの改革を進めるにあたり、ある1人の野良委員の不興を買ったとする。すると、その改革への報復として、この野良委員が行政事業にいらんちょっかいを出す可能性が生じる。仮にこの報復がうまくいくと、“専門性の外部化”も相まって、最悪の場合、行政事業がストップする事態が起きる。それならば、野良委員の反応をあらかじめ調査したいところだが、“野良委員会”は輪郭が不明瞭で実体を把握しずらく、数も不明なため、実施しようとする改革がどの野良委員の不興を買いそうか事前に把握しにくい。藪をつついて蛇が出るかもしれないのに、“行政事業必達の理(ことわり)”により、この蛇の処理も完璧に行わねばならない。だから、改革は難しいのだ。改革の実現には、幹部がリスクを取れるよう、市民によるバックアップと寛容な態度が必要になる。

②おそらく、大阪維新の会はこの得体の知れない“野良委員会”に真っ向勝負を挑んだ初めての政党ではないだろうか。実際には“野良委員会”とは言わず(当然ですね)“既得権益”と呼び、“野良委員会”よりもずっと広い概念をターゲットにしていた。維新の会は時にメディアを巻き込んでの「論戦」でけりを付ける戦術で、市民の人気を博し、抜群の知名度を誇った。「論戦」のプロとも言えるようなメンバー(弁護士とか)を揃え、それを行うリング(メディア)もあつらえ「さあ、正々堂々殴り合いましょう!」と呼びかけた。ただ、「論戦」の素人の野良委員が、このリングに上がっても、素人喧嘩自慢がプロボクシングの日本ランカーに戦いを挑むようなもので、一方的に殴られて終わるに決まっている。結果、リングに上がる者はあまり現れず、「戦わないのなら、我々の勝ちでいいですね?」と不戦勝を次々と勝ち取っていく。とても理にかなった戦術だ。連戦連勝の勢いのまま、大阪都構想の住民投票に望んだが、結果は僅差で2度敗北。年代別で見た賛成票の割合で、現役世代の票が、思ってたより伸びなかった印象。大阪市のような大都市も保守化しているのかもしれない。“野良委員会”の根は、現役世代にも広く・深く張っており、維新の会をもってしてもそれを断ち切ることは出来なかった。

③8匹のサルのジョークという話がある。8匹のサルが入った檻の天井にバナナを吊るし、このバナナが取れる位置に梯子を設置する。ただし、サルが梯子を登ってバナナを取ろうとすると装置が作動し、天井から氷水が降ってきて全員濡れて凍えてしまう。初めのうちは何度もバナナを取ろうとし、何度も氷水を浴びて不快な思いをする。これを繰り返すことで8匹のサル全員がバナナと氷水の因果関係を学習し、やがてバナナを取ろうとしなくなる。学習が完了したことを見計らって、8匹のサルのうち1匹を新しいサルと入れ替える。新しく入ったサルはバナナと氷水の関係を知らないため、天井のバナナを見て梯子を登ろうとする。すると、バナナと氷水の関係を知っている残りのサルがこの新入りのサルを集団でボコボコにし、バナナを取ろうとするのを阻止する。やがて新入りのサルはバナナを取ろうとするとボコボコにされることを学習し、バナナを取ろうとしなくなる。新入りのサルがこの学習を完了したのを見計らって、最初からいる7匹のサルのうち1匹を新しいサルと入れ替える。このサルもバナナを取ろうとすると最初からいる6匹のサルからボコボコにされる。この6匹のサルが新しく入ったサルをボコボコにするのを見て、このサルの前に入ってきたサルも、なぜボコボコにするのかわからないが仲間にのけ者にされたくないので、一緒になってこのサルをボコボコにする。この様なことを繰り返していき、最初の8匹のサル全てが新しいサルに入れ替わったらどうなるか?檻の中の新しい8匹のサルは、バナナを取ろうとすると氷水が降ってくるという本来の理由を知らず、ボコボコにされるという理由から誰もバナナを取ろうとしない。組織文化が形成され、それが継承されていくうちにその存在理由を誰も分からなくなる過程を表現した話だ。

④“専門性の外部化”、“野良委員会”といった事項を加味して考えると、事業の平穏無事な実施には、「みんな仲良く波風立てずに」が必須で、これが事務方にとっての鉄則になる。時として事業本来の目的よりも、「みんな仲良く波風立てずに」が優先されたりする。この鉄則を守るには、過去に誰かが行った「判断」、「決定」、「ルール」をいたずらに覆さないことがコツだ。これらには、必要性や合理性とは別の次元の存在意義が潜んでいることがある。触らぬ神に祟りなしというわけだ。ただ、これがコツに留まっていれば問題ないが、“8匹のサルのジョーク”同様、時を経るにつれ徐々に絶対化してく。以下このコツの絶対化を“無謬の目的化”と呼ぶ。

⑤地方に限らず日本のスポーツ界は教育行政と癒着し、部活動を通じて競技者という顧客を獲得してきた。そのため多くの競技が顧客獲得の努力を怠っており、少子化により競技人口が少なくなると、部活動への強制加入などという訳の分からない方法で部員(顧客)を獲得したりする。このような訳の分からない方法がまかり通ってしまうのも、“野良委員会”が各種調整を水面下で取り仕切る能力を有し、行政の“無謬の目的化”に欠くことができない存在でもあるからだ。“野良委員会”の存在が“無謬の目的化”を助長し、“無謬の目的化”の為に“野良委員会”に頼る・・・そんな「鶏が先か?卵が先か?」の様相を呈している。

⑥自分の町に、小さいのになぜか潰れないスポーツ店がないだろうか?潰れない理由の一つとして、その地域の学校指定の運動靴や体操着、ジャージ、水着なんかを、このスポーツ店が一手に卸している可能性がある。この場合、このスポーツ店の店主が“野良委員会”の委員と親しい間柄だったり、野良委員そのものだったりすると、「体育の授業で着る服は、動きやすければ原則自由!(事実上の体操服の学校指定廃止)」などといった改革は困難になる。

⑦少子化が進んでいるにも関わらず、教育行政が担う責任の範囲は拡大の一途をたどっている。さらに、この責任に付随して発生する業務の大半は現場の教職員に押し付けられている。そのせいで教職員は多忙を極めており、新たな課題やトラブルを抱え込む余地はなく、“無謬の目的化”がかなり進行している。このような状況では、各種調整手続きをスムーズ化してくれる“野良委員会”の役割は重要性が高くならざるを得ず、教育行政に占める“野良委員会”の存在感は大きい。ヤクザの組長のような存在と化した競技団体のトップが“野良委員会”には逆らわないのも、教育行政との関係性を維持するためで、もしこの関係性が絶たれると、影響力の源泉が干上がってしまいかねないからだ。
※実際のところ、競技団体のトップは、その地域の強豪校といわれる高校や大学の監督などが兼務していることが多く、実質的に教育行政の傘下となっている。そういう意味での統制もしっかり働くため、地方のスポーツ界と教育行政は、癒着を通り越して一枚岩になっているところが多い。

⑧以前、「ツーブロック禁止」という校則の存在が問題となったことがあった。この校則が設けられた理由として「外見を理由とした事件・事故から生徒を守るため」と教育長が述べていたが、意味不明だ。行間が埋まってない感じがするので、ついつい「その地域の“野良委員会”が絡んでいるのではないか?」と勘繰ってしまう。この地域の野良委員の一人が、地域の青少年の頭髪の乱れに時代錯誤な危機感を抱き、こういった校則を捻じ込ませることもありえそうだからだ。校則1つ増やすだけで、野良委員のご機嫌が取れるなら安いものだ。たった1つの校則でも、現場の教員にとっては負担増となるが、“無謬の目的化”が進んだ教育行政の幹部やその事務方にとっては、そんなの知ったこっちゃない。この場合、この野良委員が一般市民なら、教育長も本当の理由を述べるわけにもいかないだろう。
※あくまで想像なので真実じゃありません。

⑨地方スポーツ界において、スポーツとは学校の部活動として提供されているスポーツだけを指し、スノボやスケートボード、サーフィン、BMXといった競技はその注目度とは裏腹にずっと蚊帳の外だった。また、これらのスポーツは安全管理が性質上困難であるため、事なかれ主義の学校教育との相性も悪い。これらのスポーツは良くも悪くもこのような状況に置かれてたがゆえ、しっかりと商業化され、競技のファンを顧客とし、興行での収益化ノウハウが確立され、業界が経済的に自立している。これらの競技で、やたら日本人が強いのも、地方スポーツ界の持つ理不尽な力学の影響を受けにくかったからかもしれない。

この章のまとめ
今回は、地方のスポーツ界を通じて見た野良委員会のちょっと面倒な一面を紹介した。地方で企業するなら、行政案件の仕事を受注することもオプションとして残しておいた方がいい。地方では「自治体&外郭団体」コンビが最大の会社なんて事も珍しくない。そして代金の取りっぱぐれの心配もない優良顧客だ。ただ、“野良委員会”の存在を知らずに意気揚々と乗り込んでも、門前払いかテキトーにあしらわれて帰らされるのが落ちだし、首尾良く受注をゲットしても、運悪く野良委員絡みの地雷を踏んだら、訳もわからず吹っ飛ぶことになる。これを踏まえ地方で企業する上で心得ておきたい寓話を以下に述べる。

~あるところに、慎ましく暮らす4人家族がおりました。この家族は、自ら切り開いた土地で農業をし、その収穫は4人で暮らしていくのにギリギリの量ではあったものの、4人は幸せに暮らしておりました。ある日、長男が子持ちの嫁を娶り、家族は7人となりました。この家族は、これまでよりも賑やかに、そしてこれまで通り幸せに暮らしたとさ。めでたし、めでたし~

・・・とはならない。4人でギリギリなんだから、7人だとエライことになる。最後の「これまで通り幸せに暮らしたとさ」を成立させるには、通常の農作業のかたわら新地開拓を行うなど、大きな犠牲を払わなければならない。地方でポッと企業しても、そこには寓話と同様、十分な余剰は無いと思った方がいい。手ごろな土地(顧客)を見つけても、すでに誰かが耕しており、その相手がギリギリならバトルになる。このバトルは市場競争的なものではなく、主に地縁などを駆使した面倒なものだ。バトルを回避するために、新規のビジネスチャンスを開拓しようにも、地方経済は縮小の一途でイバラの道だ。そこで大事なのが、野良委員との関係性構築と野良委員を通じた受注のゲットになる。野良委員からの紹介なら、それを邪険に扱うわけにはいかないし、地雷を踏みそうになったら、それを事前に情報提供して貰える可能性も出てくる。“野良委員会”の厄介な側面は、味方にすれば逆に便利で強力な機能・能力として現れるのだ。そしてこれは、地方で起業するなら将来野良委員になることを視野に活動することが有意義であることを意味する。“野良委員会”は“専門性の外部化”が生じた「部分」を通じて、行政への影響力を行使する。当該「部分」が生じやすく、身近で、かつアプローチしやすい分野としてスポーツと福祉が挙げられる。これらの分野は、専門的な知識・経験の束になっており、この分野内で互いに関連性が乏しい個別の専門領域が多数存在する。そのため全体を体系立てて把握することが出来ない。例えばスポーツの分野で言うと、サッカーのルール・戦術を完璧にマスターしても野球の指導ではほとんど役に立たないし、サッカーの大会運営に10年携わっても、その経験は野球の大会運営ではほとんど生かせない。そのため専門的知識・経験を必要とする分野数が多く、それら全てを行政が抱え続けることが困難なため、“専門性の外部化”が起きやすい。地方スポーツ界と教育行政が癒着しているのは、専門性を内部で抱えなければならなかった時代に、スポーツ指導では素人同然だった現場の教職員を使って、スポーツ指導者の代用を図った苦肉の策の名残だろう。学生時代に何かスポーツに打ち込んでいたなら、その競技を取っ掛かりにするのも良いし、スポーツや福祉はその関連事業にボランティアを必要とするものが多いため、これを取っ掛かりにするのも良いだろう。

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