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母親としての人生

平成25年の秋に実母が亡くなりました。
末っ子の入学祝に通学用の自転車を買ってくれたまではしっかりしていたと思うのですが、夏ごろから何度も同じ用件で電話をかけてきたりするようになりました。
関西に住む姉が何度も広島に通って介護認定を受け、訪問看護やヘルパーさんを手配してくれました。
あたしも何回か様子を見に行きましたが、あのきれい好きでおしゃれだった母がちらかった家の中でオムツ一丁で座り込んでいた時は胸が痛かったです。
あたしは施設に入れたほうが良いのじゃないかと姉に訴えましたが、「母がしっかりしているときに家で最期を迎えたいと言っていた。できる限り今の状態で最後まで行くのがあの人の希望だ。」ということでした。
仕方ないのであたしは母の家に行くたびに家中を掃除して母が好きなものを料理しました。
あたしは母とは折り合いが悪かったのですが、認知症の出てきていた母はときどきあたしをヘルパーさんと勘違いしているようで、「あなた気が利いているわね。また来てほしいわ。」などと笑顔で話しかけてきたものでした。
あたしもその方が気が楽なので、「はい、ありがとうございます。また寄らせてもらいますね。」と応えていた。
その18年前、母がくも膜下出血で生死をさまよって以来、あたしは母が一度死んだものと思うことにしていたのです。
それまではなんとかあたしのことを理解してもらおう、受け入れてもらおうと議論を吹っ掛けたり昔のことを蒸し返したりしていたのですが、母がなんとか後遺症もなく命拾いしたことで、もうあきらめよう、母のことは昔世話になった親類のおばさんくらいの気持ちで接しよう、看病を頑張った父を安心させてあげよう、と思いました。
その後父が亡くなり、母は一人で10年過ごしたわけですが、その間はあまり派手な喧嘩はしなかったと思います - だからと言って親孝行をしたかと言えば相変わらずぎこちない会話しかなかった気もします。
だから最後に訳の分からなくなってる状態ではあったけれども、ヘルパーさんとして機嫌よく会話でき、母に何度も「ありがとう」と言われたのは救いでした。
一方で自分の夫を失ったばかりで、まだその時の自分の対応に納得がいかず自分を許せないでいたあたしにとって、姉の毅然とした態度は脅威でした。
もう姉はすっかり母の死期を受け入れ、母の望む形で死を迎えられるよう粛々と準備し、ぶれることがなかったからです。
あたしは母の死においてもまたもや見事な役立たずぶりをさらしてしまいました。

母が脳梗塞の発作で、もう危ないだろうということで姉に呼ばれ、広島に駆け付けたのはその年の10月も終わろうかという頃でした。
1週間ほど意識朦朧とする母を姉と二人で見守りました。
ある夜明け前に母の呼吸が荒くなり、在宅診療をしてくださっていた主治医の先生に連絡をしてすぐ来ていただきました。
待っている間にも母の呼吸はどんどん荒くなり、一度大きき息をして、静かになりました。
あたしは思わず心肺蘇生法を施していました。
何か月か前に「延命治療はしないでください」と書類に判を押していたのに。
母は戻ってきませんでした。
母への最後のキスになりました。

その後1週間ほど家や書類の片付けをして、自宅に戻りました。
結局最後まで母とは分かり合えませんでした。
「お疲れさま。」
葬儀に来て、あたしより先に帰っていたこどもたちが迎えてくれました。
「おじいちゃんの家、なくなるの?」
「うん、売却することにした。」
「せっかく頑張って掃除したのにね。」
最後にお見舞いに行った時に一緒に来た末っ子があたしが躍起になって床掃除をしていたのを思い出して言いました。
「お母ちゃん、おばあちゃんが苺食べたい、って言って、買い物に行ったでしょ?」
「うん?」
「あのとき、(ママはどこに行ったの?)って言ってた。わかってるみたいだったよ。」
「そう。」
「苺大福、美味しかったって帰る前に言ってたよ。」
季節的に八百屋に苺はなく、和菓子屋にかろうじて苺大福があったのでそれを買ってきて母に食べさせたのでした。
母がどこまでわかっていたのか、わかっていなかったのか、もうわかりようもありません。


その2年後の夏には相方の母が亡くなりました。
もともとリウマチのせいで手足に障害があり、年を取ってからは移動が困難になってはいましたが、負けん気の強い人で、いつも動き回っている働き者のお母さんでした。
相方が急死してしまい、もちろん気落ちされてはいましたが、見るからに元気のない義父に比べると平常心を保っておられた気がします。
でも1年ほどたって義父がようやく元気を取り戻したころから体調を崩すようになり、あたしの母が亡くなって初盆を迎えた頃にはあちらは入院してしまいました。
そのようなわけで、あたしの父の実家と相方の実家は比較的近いところにあったので、平成25年から27年にかけてはひんぱんに広島に行っていた気がします。
ちなみに移動はいつも高速バスでした。
初めて高速バスを使ったのはサッカーの遠征でしたが、このころはあたし一人で移動していたので安さにつられて高速バスのお得意様でした。

平成26年の9月にお見舞いに行きました。
その翌月予定していた実母の一周忌に末っ子は高校の修学旅行だったので、じゃあその前にお母ちゃんが義母のお見舞いに行く時に一緒に行こうという話になり、久しぶりに新幹線で行くことにしました。
いつもは外の景色を見ることもなく、長時間のバス乗車にいつもボロボロになって降車し、病院とバス停を往復するだけだったのですが、その時は久しぶりに末っ子と二人でちょっとした旅行気分でした。
病床の義母はすっかりやせ細り、末っ子を相方と間違えて呼ぶなど、末っ子には色々とショッキングなこともあったかもしれませんでしたが、彼もここ数年、鍛えられていたせいかちゃんと祖母に優しく接していました。
2人で帰りの呉線に乗り込んだ時のことです。
「あそこ空いてるよ、母ちゃん座りなよ。」
海側の空席を見つけて末っ子があたしから荷物を取って網棚に乗せながら案内してくれました。
「ありがとう。」
「母ちゃん、海見るの好きでしょ?」

あたしはその後すぐに眠ってしまった末っ子の寝顔を見ながら泣いていました。
相方が天国に行ってしまって間もなく3年になろうとしていました。
あたしが毎日毎日、死にたい、死にたいと思いながらやっとこさっとこ働きながら、ついでのように生きている間に、息子はこんなに優しい人に育ってくれていました。
毎日時間がない、時間がないと、適当な食事を作り、お酒で流し込んで、3年の間に6㎏もあたしが太ってしまった間に、息子はこんな思いやりを身に着けてくれていました。
あたしは泣きました。
自分が情けなくてしょうがなかったです。
17歳じゃないか!この子はまだ17歳じゃないか!!一番楽しいころじゃないか!!!
あたしがぐずぐずめそめそぶくぶく太っている間に、脂肪の鎧で自分を醜く武装している間に、この子はグレもせず、ふてくされもせず、自分の人生をはかなんだりもしないで、こんなにまっすぐに成長してくれたではないか。
あたしはなにをしてきたんだ。
あたしが毎日死にたいからって、この子の、こどもたちの、人生を台無しにしていいなんてことにはならないじゃないか!
あの阪神大震災の後、こどもたちにつまらない母親の姿だけを覚えておいてほしくないからって、あたしは生まれ変わったんじゃなかったのか!?
また同じ過ちを繰り返すのか、お前は?
こどもに人生は楽しいものだと、教えてやれなくて何が母親か!?
ばかやろう、ばかやろう、あたしのばかやろう!!

その日はちょうどあたしと相方が入籍した日でした。
本当なら25周年、銀婚式になる日でした。
25年前、母が予約した広島の駅前のホテルで結婚式をあげたときにあたしの周りにいた人はずいぶんいなくなってしまいました。
末っ子と二人でライトアップされた原爆ドームを見に行きました。
あたしはもう一度、生き直すことにしました。

翌年、夏の終わりに義母は力尽きました。
可哀そうな義父は89歳で妻と息子に先立たれてしまいました。
相方には妹がいて独身でずっと両親と暮らしていました。
「私に甘えるようになりよるんじゃけ、困ったもんよね。」
義妹は困ったような顔をしていましたが、義父が一人ぼっちにならなくてよかったとあたしは思っていました。
義母の四十九日の頃に実母の三回忌がありました。
「家の売却先決まったよ。」
姉はものすごい勢いで父の家を片付け、財産整理をし、家の売却先を見つけ、どんどん処理していっていました。
姉は何とお墓の引っ越しまで実行し、両親のお墓は彼女の居住自治体の公立墓苑の一角に義兄の家のお墓と並んで建立されました。
父の実家(あたしにとってはおじいちゃんの家)は更地となり、新しい家が建ちました。
ああ、もう、ここへ来ることもなくなっていくんだろうなあと思いました。

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