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生きづらい私達

生きることは、大変である

ここで書く“生きる”とは生存していることではなく、人としてまともに立っていること。

別に食事が取れないわけじゃないし、死ぬ程お金がないわけでもない。仕事もしているし雨風凌げる家もある。
肉親も健在だし、友人がいて、恋人がいる。

それでも私達は生きづらい。贅沢な悩みである。

同じように生活し同じ出来事が同じタイミングで起こったとして、私達人間は受け取り方や感じ方が違う。ストレスを受け止められる器の大きさが生まれ持って人それぞれ違うのだ。

腹を立てるひと
肩を落とすひと
絶望するひと

もともと安易に生きることを諦めたくなる私は、最後の項目に当てはまる。

「普通の人はそう簡単に生きるとか死ぬとか考えないよ」

いつだったか友人に言われた言葉。
だよね、と笑って無表情の心はさらに乾燥していく。
どうやら私は普通ではないらしい。

幼少期の古傷

悲観的な性格について語る文献によく述べられている、親からの愛情が足りなかったことが原因ではないかという考え方。
両親の離婚、浮気、暴力、ネグレクト…
私も少なからず原因はそこであろうと思う。
周りから見れば大変満たされているように見えて、家庭では勉強が出来ないことを異常に嫌う親を持つ子供や、兄弟間や他所の子供との比較をする親なんかも同じ。
教育を受ける年齢を過ぎ成人を迎え、親の傍を離れてもなお、死ぬ迄解けない呪いがかけられている。

そういった類を題材にした書籍は何冊も読み込んだが【だからどうすれば良いのか?】【大人になってしまった今、ここからどうすれば楽に呼吸が出来るようになるのか?】そこに触れている物は殆どない。

それどころか、そもそも存在するのかすら分からない出口を求めて生きていかなければならないのだ。

偉そうなことを書いたが私自身その迷路にいる。

歯を食いしばって生きていくとして、この先本当に楽になる日が来るのか、正直、この先の幸せを掴むことより今現在自分に起こる辛いことや悲しいことを全て無くしてしまいたいと思うこともある。
代償として楽しいことも起こらない、だがそれでいい。“いま”が辛いのだ。

長ったらしく楽観的なコラムを見ると、だいたい述べられたことは同じ。
“頑張った自分にご褒美をあげよう”
“ストレスを溜めないように生活しよう”
“好きなことをやる時間を増やしていこう”

ああ、ウンザリだ。何も分かっていない。
静かにブラウザを閉じ自分の殻に閉じ籠もる。


まともに生きることも出来ず、死ぬ事もできない。
また今日も、シラケた目をして息をしている。


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