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気楽に生きよう

今日は月末の金曜。俗にいうプレミアムフライデーってやつ。
年度末ということもあって今週は目が回るくらい忙しかったけれど、何とかすべての仕事を片付けることができた。部署全体に「仕事が終わったやつから帰っていい」というお達しが出たので、4時に退勤して行き着けの居酒屋に向かう。

「いらっしゃい!今日は早いねぇ」

気さくなマスターがいつものように声をかけてくれる。マスターとの会話が楽しいというのもここの居酒屋を気に入っている理由の一つ。いつものようにカウンターに座ってビールを注文する。

「っあーーーー!うまい!」

仕事が終わった後のビールは格別だ。料理を食べて、マスターの話をお腹を抱えて笑いながら聞く、ああなんて幸せな時間なんだ。
いい感じで酔いが回り始めたころ、女の人が店に入ってきた。彼女はひどくくたびれた様子で、目の下にははっきりとクマが出ていた。手には紙袋を持っている。

「マスター!お願い!あれください!」
「あれ?もう今週2回目だよね?締め切りやばいの?」
「前回もらったときに自分の分は書き上げたんですけど、後輩の企画が一個ぽしゃっちゃったから私が追加でもう一本書くことになって…。」

どうやら彼女は雑誌かなにかのライターらしい。紙面に穴をあけることだけは絶対にできない!と熱く語っている。
マスターは、飲みすぎは体に良くないよーなんて言いながら冷蔵庫からエナジードリンクのような缶を取り出して女の人に渡した。
缶は真っ黒でラベルも何も貼っていない。何かの試作品なのだろうか。

「落ち着いたらまた飲みに来ますね!ありがとう!」

缶と交換に、手に持っていた紙袋をマスターに渡し、猛ダッシュで店を出る彼女。なんだか嵐が訪れたような気分だ。

「マスター、テイクアウトも始めたんすか」
「ああ、あれはうちのメニューじゃないんだよね。だから、あれだけ特別に。最近流行り始めたエナジードリンクだよ。作業効率がぐっと上がるみたい」

マスターはいつも通りににこにこしながら答えてくれた。そして、興味がある?とも。あんなに切羽詰まった状態の時に、そのエナジードリンクを頼るってことは相当な効き目があるんだろう。少し飲んでみたい気もする。

「それだけ効果抜群ってことは相当高そうですね。いくらくらいなんですか?」

マスターはお客さんが増えてにぎわっている店内をちらっと確認してから声のトーンを落としてこう言った。

「お代はね。お金じゃないんだ。考える力」

予想もしなかった角度から答えが返ってきたので、僕は口に入れようとしていた唐揚げを落としてしまった。
考える力と引き換えに作業効率を上げる?そんなことができるのか?考える力を対価として差し出したら作業が止まってしまいそうな気もするが、本当に効果があるだろうか。

「ほらよく言うだろう、考えるより手を動かせって。単純な作業をするときに他のことを考えてしまったら、作業の邪魔になるし、効率が下がる。それならいっそ考える力を取ってしまおうというアイデアなんだよ。考える力をとっても、脳の処理能力には影響しないから作業が止まることはない。効果は絶大みたいだよ。」

僕の知らないところで画期的なアイデアが流行り始めているらしい。一時的な効率を求めて少しずつ考える力が無くなってしまったら、さっきの女の人は文章は書けるが、企画を思いつかない人になってしまわないのだろうか。いや、考える力が無くなったら、日常の些細なことで悩む苦しみも味わなくてすむのだろうか。そんなことを考えていると頭がぐらぐらしてきた。飲みすぎか、はたまた考えすぎか。
マスターは僕に、さっき女の人が紙袋に入れて持ってきた「考える力」を見せてくれた。それは握りこぶし大の黒い石のようなもので、僕にはその後の使い道がさっぱり分からなかった。

「この考える力はこのまま業者に渡すんだ。うちの店は卸売り業者みたいなもんだから、これが何に使われているのか詳しくは知らない。ただ、このエナジードリンクを作ったのは政府筋のやつらだってって噂もある。」

政府がこのエナジードリンクを流通させているってことは、裏を返すと政府が俺たちから考える力を取り出し、集めているってことになる。いったい何のために…?あくまで噂だとマスターは笑っているが、変な汗が止まらない。酔いもすっかり覚めてしまった。追加のお酒を注文しようと手を挙げたその時、ポケットの中で携帯が震える。会社の先輩からだ。

「もしもし、今お前どこ!?お前の担当者していた決算書、項目が1つずつずれてるぞ!これ日付超えるまでに出さなきゃやばいってのはお前も分かってるよな!?今すぐ会社に戻ってこい!」

焦った先輩の声に、思考が止まる。タイムリミットは後4時間。資料を印刷して、項目を1つずつ入力して、あとはあれもやらなきゃいけない、あとは…!だめだ。自分の普段の作業スピードでは到底間に合わない。急いで会計を済ませながら、僕はマスターにこう言った。

「マスター。お願い。あれください。」

ー終ー

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