娯楽の飽食の時代
他の娯楽がないときにこそ、目の前のコンテンツをじっくり味わえるのではないか、ということに最近気づく。
たとえば、テレワーク中に限って、余暇の時には手が伸びなかったような難しい本や、社会問題の本を読みたくなる。つい手を出したくなる。
なぜ本かというと,スマホは電源を切って遠くに放り投げているからだ。
スマホのアプリを見たり、YouTubeを見たりしてサボるよりも、世の中のためになりそうな本を読んでサボるほうが、なんだか高尚な気がして、そういうものに手が伸びる。
そして「今は仕事中」という縛りがあるにもかかわらず、とても集中して読めてしまったりするのだ。あかんあかん、と我に返り、本も遠くに放り投げる。
あるいは通勤中、スマホのギガ不足を恐れてスマホをカバンにしまうと、びっくりするくらい集中して読書ができる。
私は月に5GB+前月繰り越しの4〜5GBで毎月を乗り切っているので、外出中必要がない場面ではギガを使うことは避けたい。
そうすると、電池もギガも減らさずにできる娯楽が、読書となる。(私は,スマホ断ちに効果があるのはとにかくGBを得ないことだ,と思う。)
基本はUQモバイルのギガ節約モードにしておき、アプリやサイトがなかなか開かないようにしておくのである。(レジの前でポイントカードのアプリが開かずに、あわてることも多いけど、、)
そんなわけで、アクセスできる娯楽が少ないと、自分の目の前にある娯楽を精一杯楽しもう!思えるわけだ。
逆に、あれもこれもアクセスできる環境だと、自分にとってどれを見たいのかわからなくなってしまうことが多々ある。
同じ理由から、私はAmazon Prime以外の映像サービスは契約していない。私がアクセスできるのはアマプラにあるものだけ、と割り切って、その中から映画を選び、真剣に見るためだ。
TSUTAYAでDVDを借りていた時代はなおさらよかった。多少つまらなかったり、長かったりしても、今日見るものがこれしかない!となれば、最後まで味わい、尽くそうと我慢して鑑賞したものだ。
それは、あれもこれも食べられる!と言うビュッフェのような環境だと、目の前の料理に集中しなくなり、味なんか覚えていないというのに似ている。
または効率よくテーマパークを回ることに勤しみ、あれもこれもチェックしているうちに、目の前のものをこなすだけになってしまっていて、ひとつひとつの記憶はぼんやりしている、という状況にも似ている。
最近、防災ラジオを買った。
一人暮らしで、懐中電灯になったり、手動で電力を賄えるようなラジオが欲しいなと思ったのだ。これのお世話になるような大災害にはできれば遭いたくないが、お守りがわりだ。
このラジオを前にして、ふと思った。
もし大災害が来て、避難所にいき、スマホもつながらず、他の娯楽が全部遮断されたとき、このラジオから流れてくる番組や音楽が自分の目の前で唯一の娯楽になるのだろうか。
その時に聞こえるラジオは、きっといつも何かを"しながら"聞き流しているラジオよりも、ありがたく、楽しいものとして聞こえるんだろうなと。
引き続き、Instagramをなるべく見ないようにしている。投稿したいものがない時はアプリを消すようにしている。
あまりにも入手できる情報が多すぎるし、自分も誰かとおいしいものを食べたり、遠くに出かけたりしないといけないのではないか、損しているのではないか?言う焦燥感にかられるからだ。とくに、ゴールデンウィークなんかは。
幸い,自分の前にはいろんな娯楽の手段が広がっている。映画にアマプラ、podcastにラジオ、漫画に小説、友達との約束、美術展、カラオケ。
とても贅沢なことだ。
でも私は強欲だから,なるべく多くを効率よく味わってやろうと、つい予定を詰めすぎてしまう。
詰めすぎた結果、一つ一つに向き合う集中力が落ちているのをとても感じる。
味わう、ということができず、ただ消費していくだけ。果たして内容はどのくらい覚えているだろうか?
だから、反省の意味を込めてこのノートを書いた。いい加減、カルチャーのビュッフェ状態をやめたいと思った。
数取ればいいもんじゃないし,現状、明らかに胃の中で消化不良を起こしている。食べ過ぎな上に、早食いだ。
目の前のカルチャーをちゃんとよく噛んで味わって食べていますか?
本当に見たいものや、今目の前にあるものに集中することを心がけたい。
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