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京介と春乃 #1

部屋を出て行くようにと言われたのは突然のことだった。

ぼくは玄関を入ってすぐの小振りのシンクで、三人分の食器を洗っていた。とてもよく晴れた日で、レースの白いカーテンが朝日に当てられて透きとおっていた。冷気の這うフローリングからかかとを浮かせると、貼ったばかりのシールを剥がすようなぺりっという音がして、ぼくはちょうど角を合わせて貼り直そうとするみたいに、もう一度もとの場所にかかとを落ち着けようとしたがあまりうまくいかなかった。ぼくは再び片足だけ爪先立ちになって、シンクに体重をあずけた。細かい水粒が服に残した淡い跡は、覚えのないすり傷みたいになかなか消えなかった。

ぼくは皿を洗うのが嫌いではなかった。どちらかといえば好んでやっていた。ぬめりを落とした食器を綺麗にならべ、すっかり乾いたら棚に戻すという工程は、ぼくにとって気分がすっきりするものだった。ほろほろとくだける水の氷のような冷たさを、ぼくは愛おしく思った。

背後から出し抜けに何か言われたので振り返ると、笹岡が寝巻き姿のまま、居間からこちらに向かって立っていた。Tシャツのホイップクリームみたいなキャラクター柄はすっかりひび割れていて、彼の膨らんだ腹から剥がれ落ちそうになっている。ぼくは皿を洗う手を止め、蛇口をひねった。

「何ですか?」

「出て行ってくれるか」

彼が何と言っているのか理解できなかった。挨拶の言葉ひとつ知らないような、聞いたことのない言語で話しかけられた気分だった。

「すみません、何て言いました?」

「だから、出て行ってくれないか」

笹岡にふざけているような様子はなかった。両脇に垂れた腕が気まずそうに揺れている。逆光で陰っている目はぼくを正面に捉えていて、威勢を崩さないようにと力んでいるように見えた。

返す言葉も見当たらず、それきり口をつぐんだ笹岡を見つめていると、胸にたちまち煮えるような感覚が込み上げてきた。むっとするような空気が肺にたまり、茶碗を握る手に力がこもる。しかしそれは一瞬のことで、何かによってそれはすぐに奥に押し返された。あとには濡れた土嚢をひきずったような、妙に冷たい感覚だけが残った。ぼくはもう彼を憎んではいなかった。

「どうしてですか」

「お前といると居心地悪いんだよ。距離感とりづらいし、それに、ときどき家事を放ったらかしたりすることもあっただろう。決めたことをしっかり守ってもらえないのならいっしょには暮らせない。おれの言ってること分かるだろ?」

ぼくはほとんど無意識に、笹岡のまなざしから良心の在処を見出そうとしていた。しかし間もなく突き当たったのは期待していたものよりもずっと冷たい壁だった。その壁に手をふれた途端、ぼくが彼のためにやってきたことはすべて徒労だったのだと思い知らされ、幾重にもなって自尊心を包んでいた薄膜がたちまち萎んでいくのを感じた。ぼくは何よりもまず、身を守らなければならなかった。

「聞こえてるのか? おれにはきちんとした仕事があるんだ。フリーターのお前は気が楽かもしれないが、あまり長引くとそっちにも影響が......」

「わかりました」誰かがぼくの口を借りて話しているような、耳慣れない声だった。口にした直後に悔やむようなまったくひどい台詞だった。「これだけ済ませたら、荷物まとめますから」

ぼくは桶に残った泡のついた食器をひとつずつ水で流し、傍の乾燥台に移していった。なかには自分の食器も含まれていたが、ぼくはそれも含めて、ちゃんと乾くように少しずつずらしながら綺麗に並べていった。笹岡はしばらくこちらを見つめていた、というよりは、胸に溜まった何かを吐きだすべきかどうか葛藤しているようだった。それを確かめるのにわざわざ彼のほうを見る必要はなかったし、彼と目が合えばそれをこちらに放る決心がつくであろうこともわかっていた。しばらくすると、シンクに跳ねる水の音にのろのろと歩く音が混じって聞こえたが、ぼくは目を伏せたまま、排水溝に吸い込まれる泡をただただ見つめていた。

片手にスーツケースを提げ、笹岡の部屋の前を通り過ぎようとしたとき、半分開いた扉の隙間からこちらをじっと見つめる女と視線が合った。涅色の髪が白い肩に散らばっていて、首元まで引き上げたシーツを両手で固く握りしめている。見たことのない人だった。彼女の目は何か言いたげなように見えたが、ふいにそれが途切れたかと思うとドアの陰から笹岡が顔を出し、こちらに向かって何か早口に言った。しかしそれは依然としてぼくの知らない言語だった。どうにか動かした両足は骨を抜かれてしまったみたいに頼りなく、おまけにひどく冷えていて、まるで時代遅れのロボットみたいだった。

二足目のスニーカーをリュックから引っぱり出したビニール袋に突っ込み、ぼくは扉を出た。まったく気持ちのいい朝だった。雀が口々にさえずりながら、冬の澄んだ空をせわしなく飛びまわっていた。



滅多に入ることのない中番のシフトを終えたあと、すぐにホテルに戻る気にもなれなかったぼくは駅に向かい、東京行きの快速列車に乗った。電車やバスに乗っている間は、目的地までの約束された流れに身を委ねていさえすればいい。だから、何かしなければならない一方でどうしても何もできないとき、ぼくはよく電車に乗った。乗客はまばらで、車窓からは灰色の街を見渡すことができた。鼠色の雲と水平線のわずかな隙間からは西陽が射していて、車内を滴るような蜜柑色に染めていた。

ぼくは阿佐ヶ谷駅で降りた。下に降って改札を通り、各々が自分の言いたいことだけ言う公開討論みたいに向かう先の見えない流れを抜け、気づけば夕闇に包まれた住宅街をずるずると歩いていた。あたりには夕食の匂いが漂っている。前を行く人影の後ろ姿を目で追っていると、真っ黒いそれは暖かい明かりがもれる家々のひとつにすうっと吸い込まれていった。家に戻った彼は、家族に対してまずどんな言葉をかけるのだろう?

視界の端をかすめた何かに、ぼくは足を止めた。掲示板だった。申し訳程度の小さな屋根のしたには、雨風にさらされて色の落ちた掲示物がいくつも貼りっぱなしになっている。泥濘に浸かったような疲労を両脚に確かめながら、ぼくはそれらに指先を滑らせた。まるでぼくから視線をそらすかのような文字の羅列。羽織を着た年寄りの写真はすっかり色が褪せてしまっていて、もはや当時生きていたのかどうかすら分からなかった。

するとふと、セーターの裾を突きだしに引っかけるみたいに、一枚のチラシに目が止まった。薄桃色の下地に「同居人を募集しています」という見出しがあり、家賃と駅からのアクセスに加えて、下部には連絡先のメールアドレスと電話番号が載っている。限られた情報しかないにしても、アクセスと家賃の相関を考えれば悪くない物件だった。際立って濃い印字からして、新しいものに違いない。

ぼくは少し迷った末、その紙を掲示板から引き剥がし、リュックに押し込んだ。新しいアパートを探すのにはもう疲れていたし、できるだけ早くビジネスホテルの狭苦しい部屋から出て行きたかった。また誰かと一緒に生活するというのは不安だったが、そうでもしなければ、回転する世界からひとり振り落とされてしまうような気がしてならなかった。

人目を気にしながら足早に帰路をたどり、ぼくはホテルの一室に戻った。そして明かりも点けないまま、ベッドに荷物を下ろすなり張り紙とケータイを取り出し、震える指で電話番号を打った。頭の中で反響するコールは永遠のようだった。何度目かわからないコールが鳴り終わったとき、受話器をとる音がした。

「もしもし?」

聞こえてきたのは、訝しげな女性の声だった。

(続)

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