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宗教と精神的自由

宗教とはある種の人間の弱さである、みたいな論じ方をしているのを何処かでみた覚えがあって、それをふと思い出して考えること。

無意味なる信実

人が何かしらを信じることには、実は殆ど意味はないと私も考えている。

今の時代、何を信じれば良いのか?
企業を信じても大手企業がバタバタ倒産したり買収されて行く時代だし、好きな人を信じて結婚したとしても離婚する可能性は否定できない。
自分自身が生きていることですら、明日には老人の交通事故とか殺人鬼に殺されるとかで失われるかもしれない。

とどのつまり、どれ程確からしい物を信じていたとしても、それは真の意味で確実足り得る事など無い。

根拠と確実性

その意味ではある意味、根拠の有ること程、確実性からは程遠いということなのかもしれない。

給料を貰えるから企業に所属して労働契約を結んでいたとしても、いつか企業の経営も傾いて労働契約そのものも切られてしまうかもしれない。
愛する人と愛し合っているから結婚したとしても、何時までも愛し合い続けることができるかは分からず、冷めてしまう事だって有るかもしれない。

…こうしてみたとき、実は「根拠の有ること」を信じると裏切られる可能性も同時に発生するという限界が生じることが分かる。

無根拠であることの意味

その点で例えば宗教には突き詰めて行くと根拠らしい根拠が無い。

神は実在するか、みたいなことで長らく神学者達が議論を続けた歴史と情報的な厚みはあれど、それは神そのものではない。

神はどこに居るんですか?どうして私たちの問いかけに答えて下さらないのですか?というどうしようもない疑問に、神の実在を論証して返答する事が出来た試しは無いのだ。

こうして根拠の殆ど無いことを一生懸命信じると、実は殆ど裏切られることが無いんじゃないのか。
「かみはいた」と言っても「かみまみた」と言っても、別に誰もその人のことを非難したりしない。
信教の自由が保証されている限りは、神が居ようと居なかろうと、それで非難されることは理論上無いのだ。

無根拠であることに対する合意

最初から根拠の無いことであると誰もがある程度合意していることだからこそ、信教の自由が成立するのではないかとも思う。

もしも「根拠はある!」と主張する人が多くなると、色々とややこしい事態に陥る。
例えば水素水だとかケイ素水だとか疑似科学の話を考えればわりと分かりやすいように思われる。
あれは科学的な目から見てもかなり効果の怪しい、根拠の疑われる物だけれど、一部の人々は「ワアー水素の音がするうぅ!!」とか言って大喜びしながら根拠を主張しようとする。

その人たちは本当に根拠が存在すると思っている訳だし、それによって水素水という物が宗教ではなく科学なのだと考えているのだろう。
しかしその人たちが大騒ぎしまくる事で、科学的リテラシーに欠ける人々が不必要に多くの金を水素水詐欺師に巻き上げられる事態にもなった。

同じことが例えば仏教の由緒正しい宗派で発生するかというと、発生してない。
浄土真宗とか日蓮宗とかで「これを飲めば万病快癒!親鸞上人の清めた泉から取った、医学的効果のある親鸞水!」みたいなのを売り出したら、多分即座に爆発炎上するだろう。

何故かというと、浄土真宗には医学的根拠は存在しないと大半の人が合意していることだからである。
誰も彼もがその「嘘」に合意していれば、それが有害な嘘になることは無い、というのが重要なことに思われる。

だから水素水だって下手に科学だとか何とか言わずに「水素の神が水素魔法で水素の波動を封じ込めた波動水素水なのだ!水素神を崇めよう!水素神!水素神!」とどんちゃん騒ぎをしていれば、それは科学ではなく宗教としてそれなりに成立したと思うし、それほど社会的に有害な影響を撒き散らす事もなかったんだと思う。

神前における、非難されない自由

ある意味そうして社会的に根拠の無いことと一定の合意が得られてる物事を、それでも信じようとする人が居るのは何故なのかと言えば、否定されることも裏切られることも無く、真っ直ぐ信じ続けていられるからではないかと思う。

仏教を信じてたからって「涅槃なんて有るわけない!輪廻転生など非科学だ!」なんて大騒ぎして非難する人はいないし、クリスチャンだったからって「キリストなど実在してるわけ無いだろ!」みたいなことを言われて非難されたりもしない。
つまり宗教という社会的合意を背景にした嘘の上に、自分自身の信条を誰にも邪魔されること無く構築することが出来るのだ。
これはある意味とても重要なことかもしれないと思う。

現代とは否定と非難の時代である。
「AはBである」とネット上で主張すれば、まず「AはCだろ!何言ってんだバカ!」と罵倒する人が現れるし、「AはBだしCですよ!君らは複雑な概念を理解できてないんです!」みたいな上から目線も現れるし、「ところでBはTだよね」みたいな全くトンチンカンな話を始める論点ずらしマンも現れる。

要は「誰にも邪魔されること無く自分自身の信条を作り上げる」という事が中々難しい。
必ずよく分かんない邪魔が入るし、邪魔を入れることが正義だと思われている節もある。

そういうときに、宗教という考え方はある意味では「最後の砦」となるものなのかもしれない。
個々人は神に対して誠実である限りは、その社会的虚構の中であらゆる事を善悪に照らして考え、行動することができる。

それは決して弱さなどではなく、神の前に己の自由を定義する行為なのだと思う。

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