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あなたのための値引じゃありません

記念すべき僕の初受注のお客様は、外資系エリート部長の肩書を持つ、蛇のような目のハードネゴシエーターだった。

それは2月の月末だった。同期のほとんどは、すでに何件か受注をしているか、自分に見切りをつけて早々に辞めていった。

僕はそのどちらでもなかった。


僕は受注したかった。
やめる勇気はなかったので、なんとかもう少し、ここにいられるようにしたかったのだ。

外資系エリートの蛇は、そんな僕の事情を見透かしていたのだろう。他のどんな理由でもなく、値引きを引き出しやすいという理由で僕を担当者に選んだのだ(と思う)。

その日、蛇との交渉は何時間にも及んだ。競合の存在をチラつかせて強気に出たり、こちらの弱みを握りながらも優しい声を出してみたり。世間知らずの僕にもわかるいやらしさで、彼にとっての最高の条件を引き出そうとしていた。

実際に商談をしていたのは隣に座る上司だった。
彼は僕より10歳年上で、見た目にも言動にも派手さはないけれど、実直な仕事ぶりで、会社からも顧客からも信頼されている人だった。

蛇の攻撃を受けながら、理解を得るべく説明を繰り返す彼の横顔にも、苛立ちと焦り、苦悩が浮かんでいる。

おれのためにこの人は戦っている


そう思った。
僕は下を向くことしかできなかった。
膝で手を強く握りしめた。
顔を上げられなかった。
もう断ってほしかった。


「もういいです」
そう言えるものなら言いたかった。

でも言えるわけがなかった。
上司はクールで冷たいって周りに思わせているけれど、実は僕のことでプレッシャーを感じているのも知っていた。どんなに指導をしても響かないこんな僕だけど、育てようとしてくれた。

だからもう断ってほしかった。
あなたの口で断ってほしかった。
僕はもう十分だった。


「吉村さん(仮名)、わかりました。やりましょう」



僕は耳を疑った。
顔を上げると蛇が舌を巻いた。

「でもこれだけは言っておきます。この値引は、吉村さんのためじゃないです。砂田のためですから。この値引は砂田のための値引きです。」


もう前を向いていられなかった。
僕は涙を止められなかった。
彼の言葉は100%本音だと思った。
涙が商談記録用紙にポタポタと音を立てて落ちた。

蛇は舌を引っ込めてエリート部長の顔になっていた。そうか初受注かあ、感慨深いなあなどと、興味がないくせに言ってくれた。
その場にいた人たちはみんな、僕の涙を初受注の嬉し涙だと思っていた。

蛇の奥さんがつられて泣いた。
よかったね。砂田さん。
僕は「ありがとうございます」と下を向いたまま返した。


この後会社では、勝手に無茶な値引き要求を受けてきた僕の上司が、支店長にこっぴどくやられてしまいました。

人前で涙が止められなかったのは、はじめてのことでした。ありがたくて嬉しくて、そして何もできない自分の悔しさが混じりあって、書類はしわしわになりました。




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