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『すずめの戸締まり』は世界を肯定するためのセカイ系だった

ネタバレ前提です

世界を肯定するためのセカイ系

個人的に、クリエイターは初期衝動から逃げたら終わりだと思っている。自分のなかの衝動が枯渇したからと、取って付けたようなテーマや手法に手を出したらインスタント食品のようなものしか出来上がらない。

『すずめの戸締まり』は、やはりボーイミーツガールとセカイ系だった。まずは、この初期衝動を描き続ける姿勢に、心から賞賛を送りたい。

本作は、ある意味「世界も救うし、お前も救う!!!」ドン!!! という凡庸な物語だ。だがセカイ系として見ると、興味深い展開に映る。

本来のセカイ系であれば、草太が身を挺してミミズを抑えたところでエンディングだ。しかし、『すずめの戸締まり』ではそこから草太を助けるための新たな旅が始まる。

失ったままで終わらない。これは、こと新海作品において革命的な選択だ。いつだって新海作品では、ヒロインであったり、失うことへの恐れであったり、「喪失」が通奏低音となっていた。前作の『天気の子』でも、帆高には「陽菜か、世界か」というセカイ系の主題たる2択が迫られ、ヒロインを選ぶことで正常な東京が失われた。

その意味で本作は、鈴芽はすでに失った後を生きている。舞台は震災や人口減によって「喪失した後」の世界であり、喪失が日常に溶け込んでいる物語ともいえる。

日本は間違いなく夕方の段階で、子どもたちは増えていく廃墟と隣り合わせに、大人たちが残した負の遺産に囲まれながら生きていく。そんな山積した負債に対して、10代の主人公たちが身を殉じて世界を救うセカイ系の構図は、あまりにも希望がない。

観る人に希望を届けるには、鈴芽は世界も草太も救うしかなかった。入場特典『新海誠本』のインタビューにある「観た人の何かを作品が変えてしまうのなら、美しいこと、正しいことに使いたい」という言葉があることからも、意識的な展開であることは明らかだ。

『すずめの戸締まり』単体で観ると、凡作に映るかもしれない。しかし、『君の名は。』から連なる「震災3部作」、さらに過去の新海作品と比較してみると、新海誠が次の世代へ向けて「世界を肯定してほしい」という願いを込めて作った新しいセカイ系のように思えてくる。

「逃避願望」のない主人公と善意に満ちた第三者

セカイ系とボーイミーツガールを貫く姿勢のなかで、これまでの新海作品の根幹にあった「逃避願望」……ここではないどこかに行きたいという思いが見られないことは、大きな変化だと思う。

鈴芽は歴代の主人公たちとは異なり、責任感や贖罪などから来る強い意志で旅に出る。悲惨な体験に起因する危うい死生観を持ちながらも、今に対しては肯定的だ。この在り方は、本作の肝ともいえる。

とくに印象的なのは、「常世」で幼い頃の鈴芽に出会うシーン。「死者の国」や「時間の概念がない場所」という舞台装置は、亡くなった人物に出会い、後押しをしてもらうためのギミックとして用いるのが定番だ。しかし本作では、出会うのは自分(鈴芽)であり、助けるのも自分(鈴芽)だ。

悲痛な過去を背負っていても、自分たちが生きていくのが夕方の時代であっても、過去の自分に対して「あなたはちゃんと大きくなる」と自己肯定を投げかけられる。こうした自己肯定感は、これまでの新海作品の主人公像と一線を画すといえるだろう。

また本作では、過去の新海作品の「どこにも行けないような感覚」を根底から覆すように、船やバイク、新幹線、車とあらゆる交通手段で日本を駆け抜けていく。新海作品の売りでもある、美麗な光景の長回しもほとんど見られず、一つの場所を留まることなく日本各地を移動する。

旅先で出会う人たちの善意に触れ、遮るものなく進んでいく展開は、『天気の子』で世間から隔絶するように生きるしかなかった主人公たちと比べて、対極的な描写だ。

ほかにも、本作ではほとんどモノローグを用いなかったと記憶している。モノローグを多用する「僕と君」の世界観は、新海作品の大きな特徴だった。しかし、本作の様々な感想を見ていると、むしろ鈴芽の内面描写が足りず、なぜその行動に至ったかわかりにくいという意見が散見されている。

これも第三者との対話に重きが置かれ、「僕と君」だけの世界観から脱した大きな演出の変化といえるだろう。

震災の原因に虚構を当てるということ

ここからは、個人的な関心。本作の問題部分ともいえる「ミミズを地震の原因とする設定」について、人それぞれ「フィクション」への受容性が異なるという点に着目してつらつら書きたいと思う。

人間はもともと得体のしれないもの、原因のわからない大きな悲劇に対して「物語」を付与して、心を正常に保とうとする機能がある。

流言飛語は悪意のあるデマとは根本的に異なるものであり、理解のできない事態に対して理由付けすることで心の平穏を保つという意味合いがある。

例えば災害大国であった日本でも、昔から妖怪が悲劇の原因(犯人)とされることが常であった。つまり、悲劇の原因にフィクションを当て込むのは、生来の人間の考え方に反するものではないということだ。

自分は以上のように受け止められるが、震災をエンタメ作品のテーマとすることに生理的嫌悪感を抱くのは致し方のないことだと思う。

まして、地震の発生メカニズムは解明されており、津波に対する堤防など現実的な防御策が講じられている。そうしたリアリティに対して、フィクションで理由付けを行うことに不謹慎さを感じるのは否定できない。

興味深く感じたのは、フィクションに対する受容性が人それぞれ異なるという点だ。

現実の悲劇を超常の能力で回避することに、生理的な嫌悪を感じる。では、それがヨーロッパの町並みで、金髪碧眼の主人公だったら良いのか。宇宙を舞台に、ロボットで戦う白髪の主人公なら……。閑話休題。

いずれにせよ、震災という現在でも地続きの問題となっているテーマを扱えば、一定数の批判が届くのは火を見るより明らか。それでもあえて向き合った覚悟について、その是非を論じるつもりはない。

おわりに

『すずめの戸締まり』の宣伝で、「集大成」という謳い文句が使われた理由はよくわかる。震災をテーマにした作品の集大成という意味ではもちろんだが、セカイ系やボーイミーツガールを踏襲しつつ、今までの作風を否定するような演出・構成が散見されることからも一つの到達点として観るべき作品だ。

だからこそ、次の作品で何を描くかが本当に楽しみであり不安だ。「終わっていく感覚が強くなる」と『新海誠本』で語られているが、もう『秒速』のような諦観は感じていないだろうし、『言の葉』のような擦り切れそうな恋心も描けないだろう。

冒頭で「クリエイターは初期衝動から逃げたら終わり」と書いたが、そろそろ実験作をやってみてもいい免罪符を得ていると思う。『すずめの戸締まり』をもって細田守との比較も終わり、名実ともにトップランナーになったことは間違いない。

気は早いが、仕切り直しとなる次回作で、誰に向けてどんな映画を作るのかが楽しみでならない。

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