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ボルタンスキー、生と死の輪郭

週末にボルタンスキーを観てきた。今日は水曜日も終わり、木曜日にさしかかるわけだけれど、今もなお、余韻は残る。

2015年頃だろうか、新潟県で行われた越後妻有トリエンナーレ大地の芸術祭に、私の会社がアーティストとして参加しており、私も新潟出張をしながら作品に関わっていた。

https://youtu.be/gmI92JEhJq0

当時、ボルタンスキーの作品「最後の教室」も芸術祭に出展されていて、私は前提知識もさしてなかったのだけれど、会社の同期が勧めてくれて車を走らせ向かった。その作品との出会いが、私が初めてボルタンスキーを認識した時だ。廃校を舞台に「誰かの不在」や「生の痕跡」を感じさせる作品で、薄暗い中、生々しく心音が鳴り、私は決して長くはいられなかった。その時は、大きな感動とかでもなく、可もなく不可もなく、なにかしら「揺らぎ」が自分の記憶に残っただけ。

世間ではお盆休みに入るなか、恋人に連れられて久しぶりにボルタンスキーに対峙することにした。そう、対峙。観にいく前にある友人からこんなふうに言われていたのだ。

今、私たちはさまざまなニュースを見たり聞いたりして結構疲れていると思う。それらを遠ざけようとしたって、逃れられない部分もあるからね。ボルタンスキーの作品は、今のあなたにはちょっと辛かったり重たくののしかかってくるかもしれない。感受性がある種、無防備なくらいの人には私、注意喚起しているの、いちおうね。

なんのネタバレでもなく、なんのお節介でもなく、彼女の助言はいつも賢明なものばかりなので、「あぁ、そうか」と思ったし、たしかにちょっとポジティブになれる何かに出会いたいモードだったので、このタイミングでボルタンスキーを観ることについては「対峙」という感覚だった。

三連休最終日の美術館は、一抹の静やかさはありながらたしかにごった返していて、ボルタンスキーの展示では、最初の作品からどこかどろっとしたテクスチャーに触れることになって、やはり息を飲むはじまりだった。

私の苦手なモニュメントシリーズ。笑顔の子供たちがどこか無感情にすら見えてくる。祭壇のような飾られ方にどこか胸がザワザワする。

個人の信条として、いつ何時でも、誰の死も消費されてはならないと思っている。だから、決して気持ちのよい感じはしないし、怒涛の数の作品群に飲み込まれてしまいそうになるのを自力で断ち切ろうとした。今、振り返ってみても、どう考えても苦手なのだ。あぁ、私、こんなに苦手なのになんで観ているんだ。

それでもアートは問題提起をしてくれる。その役割はいつもの美術展よりも感じられたのだった。

生と死。本当は身近なものであるのに、なんとなく遠ざけていたりする。知っているのに知らないふりというか。今回の作品群は、緻密な演出により彼の意向がつまっている。個別の作品について話しはじめると止まらなくなりそうだけど、全体を通して感じたのは「生と死」の輪郭だった。それは本来は陰陽のように二律背反でなく交じり合うものなのかもしれないけれど、たしかな「死」を感じれば感じるほどたしかな「生」を感じる気がした。

帰宅してまだぼうっとする中で、ご近所さんがおうちの前に精霊馬を飾っていた。そうか、今はお盆なのか。茄子と胡瓜が瑞々しく立ち上がっていた。自分が今日生きていることを思い知らされた。生と死の輪郭がくっきりしたような1日だったから、まだ私はその余韻を感じながら、また明日もそれなりに生きてみる。