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内田先生からのお手紙

「『砂の器』と木次線」をお読みいただいた方からお手紙をいただきました。便箋6枚にわたってきれいな文字で丁寧にしたためられたお手紙です。送って下さったのは、長年『万葉集』などの研究をされてきた京都大学名誉教授の内田賢徳先生です。
内田先生は1974(昭和49)年に映画『砂の器』のロケが行われた島根県大東町(現・雲南市)の下久野地区のご出身で、なんとその年の夏は下久野の生家に滞在されていて、映画のロケもご覧になったとのことです。本書を読んで「懐しさという感傷を意味する表現では蔽い切れない不思議な気持で筆を執る」ことにされたそうです。お手紙からはロケが行われた当時の下久野の様子や地域の人たちの心情がありありと伝わってきました。
内田先生のお許しをいただいて、お手紙の一部をご紹介します。(勝手ながら適宜改行し、句読点を入れさせていただきました)

(前略)
私の生家は社家で八幡宮の少し西側の同じ高さから広く見渡せる位置にありました。ちょうど畑を耕す作業をしていた時に川向うの県道を夏服の緒形拳が自転車で通りかかるシーンを撮っていました。村の人たちは皆仕事を放り出してロケを観に行きサインをもらうことに熱中していました。中に母親を亡くしてから弟二人の面倒を見る小さな母親を引き受けていた小学六年生の女の子が、木次の旅館にも行って自分が一番沢山集めたと誇っていたことが印象に残っています。まるで日頃の苦労が飛んで行ったような喜びようだと人々が噂しました。その少女に代表されるように、その夏、村の人々は華やいでいました。
(中略)
緒形巡査の走行シーンは側の水田にカメラを据えて撮られていました。八月下旬、稲は実をつけて稲刈りが楽しみな時期ですが、その場所は刈り取られてしまい周囲も乱れて、人々は田の主を気の毒がっていました。補償は十二分にあったのでしょうが農家の気持はそれでは済まないという点は否めません。私などもやれやれと思いました。
しかし作品をデジタルリマスター版を買って観直した折、そのアングルの背景の茅葺屋根を効果的に取り込むことに尽きない動機が思われて映画の文法の奥深さを考えました。あのローアングルは秀夫少年の視線とつながるのではないのか、そしてその言わばリアルが回想シーンのように描かれる親子の放浪シーンの俯瞰するようなアングル−それは物語の中である−とが対比されるのではないかということです。観客はこの作品の中に秀夫少年をめぐる二つのアングルを知らぬ間に与えられているとすれば農家の小さな貢献も活きて見えるように思われます。
少年の砂の器をめぐっては、いつも思い出されることがあります。昭和三十年代前半くらいまで出雲にも乞食が沢山いました。ある時生家で年末に餅搗きをしているとその音を便りに玄関先に家族づれがやって来て、餅を恵んでくれと乞います。連れられていた子達は生きていたらどんな砂の器を作ったことかと想いをめぐらします。
村の人達は当初亀嵩が舞台の筈なのに、ふさわしい土地はもう木次線沿線で下久野だけだと聞いて落ち込んでいました。世の中から取り残されていると感じたのです。しかし実際ロケが進むと気分が華やぎ、やがて自分たちの生活圏が映画化されていることを誇りに思うようになりました。そしてそれはまだ人々が盛んな暮らしをしていた頃の郷愁へと変ってしまいました。

内田賢徳先生のお手紙から


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