マイルスの何がそんなに凄いか ~音楽用語使わずに述べることに挑戦!

名盤『マイルストーンズ』リリース60周年を記念し、このアルバムを吹き込んだマイルス・デイビスという人の何がそんなに凄いのかを、ずぶの素人のすんどめが、あえて述べる。
マイルス・デイビスの凄さについては、星の数ほど批評が出ている。
しかし、そのほとんどがプロのジャズ批評家による、音楽の専門用語を散りばめた難しい解説である。
さもなければ、アフリカ系アメリカ人に対する差別や、当時のジャズ・ミュージシャンによる薬物乱用などの時代背景、また、そうした時代の中でマイルス・デイビスが果たした役割に関する解説であって、彼の音そのものの素晴らしさを読者に伝えてはくれないような論評である。
そこで、マイルスを25年聴き続けてきた、かつ音楽理論を全く知らない、ついでに言えばリアル・タイムのファンでないからこそ今の時代におけるマイルスの位置を述べることのできるこのすんどめが、マイルスを語ることには意味があろう。
できるだけ音楽用語を使わず、誰にでも分かるようにマイルスの凄さを書き記そうと思うので、ぜひともご期待頂きたい。

そもそもマイルス・デイビス(1926~91年)さんは、トランペットを吹く人である。
ジャンルはジャズである。
バンドのリーダーでもあり、作曲家でもある。
アフリカ系アメリカ人であり、ニューヨークを主な拠点として1940年代から長きにわたり、第一線で活躍した。
「ジャズの帝王」などとも呼ばれ、ロックの歴史で言えばビートルズ、日本のプロ野球で言えば長嶋茂雄にあたるような、そのジャンルの代名詞とさえ言える伝説の人である。
彼のやったことは、我々ごくふつうの人から「分かりづらい」と言われる場合が一般的であるようだ。
すんどめの周囲で、マイルスの音楽を本当に心から好きだという人はひどく少ない。
評論家たちがあまりにもマイルスを誉めちぎるため、「凄い人なんだろうな」と頭から思い込んでいるだけで、いざ彼の作品に触れても、すぐに大喜びで乗るという人を見たことはまずない。
つまり、いかにもクロウト受けの、シロウトには理解しづらい、前衛的で芸術的で難解な作風、というふうに思われがちなのである。
しかも、その批評家連中による礼讃にしてからが、実はマイルスの前半期の作品に偏りがちなのであり、後半期の本当に前衛的で革新的な作風に対しては、ずいぶんと評価が低い。
無視されているとすら言える。
実際、ラジオ番組でマイルスの演奏が流れるとき、(よほど筋金入りの専門番組でなければ)それは決まって前半期の作品である。
何を隠そうすんどめ自身も、20数年前にマイルスを聴き始めたときは、
「凄い」
とは思ったが、
「好き」
とは思えなかった人間のひとりであった。
しかし、聴き始めてから20年後、ついにマイルスを本当に心から好きになり始めた。
いちばん自然なことをやっているのは、やはりマイルスなのでは?
そんな気さえしてきた。
その自然さとはなんなのか。
すんどめ思うに、マイルスの魅力を一言でいうと……
それは、「音のつながり」である。
こんなことを言うと、バンドの音楽なんだから当たり前だろ、メンバーどうしのチーム・ワーク、音と音とのつながりで聴かせるのがバンドというものだろ、と言われるかも知れない。
いや、まさにその通りで、マイルスこそは最も純粋にバンドの音楽を追求することに成功した人ではないかと思う。
当たり前のこととは言いながら、マイルスほどその当たり前のことに成功した人はいない。
だからこそ、20世紀を代表する音楽家の1人として今も喝采がやまないのではないだろうか。
それがどういうことなのか、できるだけ専門用語を使わずに……
否、専門用語を知らないすんどめは使う心配もないので、安心して読んで頂きたい。

そもそも。
2人以上の人間が、ともに歌ったり、楽器を演奏したりと、チームで音楽を奏でる場合、
「誰が主役か」
ということが問題になる。
「(歌も含めて)どの楽器が主役か」
と言ってもよい。
たとえば合唱や斉唱のようなものを考えてみよう。
あれは原則、「全員が主役」ということになるであろう。
脇役と呼べそうなのはピアノなどによる伴奏だけで、言い換えれば、伴奏者とそれ以外、という区別しか存在しない。
(指揮者についてはここでは問題にしない。)
斉唱(全員で全く同じメロディを歌うもの)の場合は、だから、伴奏者以外の全員が等しく主役ということになる。
一方、合唱(複数のメロディに分かれ、同時に歌ってハモるもの)の場合は、むろん主旋律(主たるメロディ)を歌う人々と、それを支えるハモリの旋律を歌う人々、という区別はある。
しかし、ではそれを聴くお客さんは、主旋律を歌う人々だけを「スター」視して夢中になったり、ハモりの旋律を歌う人々を脇役として無視したりするだろうか。
あるいは主旋律を歌う人々の中の、ある特定の個人だけを熱愛し、
「あの人の歌声を聴きたくて会場へ来た」
という話になるだろうか。
なるとしても、それは極めてマニアックな、稀有な客に限られる。
そう、ここで問題となる「主役」とは、お客さんに強く訴えかけるスターとしての主役であり、チケットに「誰々のコンサート」と印刷されるようなカリスマ的な個人のことである。
言うまでもなく合唱の場合は、そうした個人は原則存在せず、全員によるハーモニーを聴衆は求める。
オーケストラについても、同じ意味で主役の存在しないハーモニーの音楽であると言うことができるだろう。
むろん、斉唱・合唱の場合もオーケストラの場合も、ある瞬間だけ、ある特定の個人が主役となって目立つ、いわゆる「ソロをとる」というやり方はある。
また、オーケストラ全体が伴奏にまわり、主役となる歌や楽器が別に登場するというやり方もある。
これらについては、後で述べる。

このように特定の主役が存在しない音楽がある一方で、
「誰々の歌が聴きたい!」
とか、
「誰々の演奏が聴きたい!」
といった、特定の個人への愛着(いわゆるファン心理)に応えて奏でられるものが、まあ、それぞれの時代のポピュラー音楽と言ってよいと思われる。
そこで、主役と脇役という分担をはっきりさせることになる。
分かりやすいのは歌もので、聴衆に愛される、あるいは愛されるように売り出したい歌手が、センターで堂々と歌う。
バンドの他のメンバーは、あくまでも彼女または彼を支える演奏に徹し、主役だけを目立たせる。
お客さんもまた、彼女または彼の歌しか聴いていない。
主役が歌でなく楽器の場合も、同様である。
こうした手法はいつの時代も大衆音楽の王道であり、アイドル・グループのような形で主役が複数いたとしても、その考えの基本は変わらない。
多くの人は、それでじゅうぶん楽しめる。
ところが、いつの時代にも、マニアックな少数派というものを形成する人々がいる。
彼らは、主役と脇役とがはっきり分かり切った音楽を、当たり前すぎてつまらないと感じるのである。

そこで、さまざまな解決を試みることになる。
解決の1つは、「ときどき主役を入れ替える」というものである。
これはとても合理的かつシンプルな解決で、主役もずっとやりっぱなしでは疲れるから、途中で一息入れ、「間奏」に入るわけである。
そして、間奏の間は別の楽器が主役となり、大活躍をしてみせる。
場合によっては、さらに別の楽器にも主役のバトンを渡す。
こうして、メンバーのうち複数の個人の見せ場を作り、花を持たせれば、特定の1人だけが目立つ退屈さを、いくぶんか解消できる。
しかし、それもしょせん一時的なものであり、主役はあくまで主役であって、間奏が終わればまた主役が活躍するわけだから、この形式にも慣れてくると、またつまらなく感じてしまう。

次に考えられる解決は、「アドリブ」である。
これは、特定の個人を目立たせないのではなく、むしろ逆で、特定の個人の個性・アイデンティティを思い切り発露させることで、より強烈にファンにアピールするための、1つの解である。
すなわち、部分的に楽譜を無視し、その場のノリで、彼女または彼自身の解釈で、自由に歌ったり演奏してみせたりするわけである。
いわば、楽譜を重視し、形式を重視し、きちんと修練を積んだ人ならだれがやっても同じ感動を再現できるように意図された音楽ジャンルに対し、個人を尊重し、個々の個性を重視すべく、その場限りの一期一会のアドリブ演奏をする音楽ジャンルが、これである。
では、このアドリブ演奏とは、実際にはどのように行われるのだろうか。

考え方は、大きく2つある。

1つは、バンドのメンバー全員がアドリブで演奏する、というもの。
いま1つは、主役だけがアドリブで演奏する、というもの。

まず前者について見てみよう。
そんなことが可能なのか、みんながてんでばらばらに好き勝手なことをやっては、音楽として成り立たないではないか、という疑問は、まったくもって、ごもっともである。
全員が自由にやりだしたら、そこはやはり、作品としてまとめ上げるのが難しいのは当然であろう。
たとえば、汚いハモり(いわゆる不協和音)も防げない。
そうなると、さらにここで2つの方向性が見えてくる。
第一は、あまり多彩な技を使い過ぎない、という方向性である。
各自が自由に演奏するとはいうものの、ある程度シンプルな、素朴な技法のみにとどめ、その枠の中で自由にやることにすれば、まとまりやすい。
こうした考え方で演奏されるジャンルの代表例が、デキシーランド・ジャズであるとすんどめは考える。
第二は、各人が多彩な技を容赦なく見せつけ、まさに全員が自分を主役と位置づけて、
「俺が俺が」
とどこまでも自己主張をぶつけ合うという方向性である。
いわば、音楽として最大限自由になろうとする方向性であり、アドリブの方法も、
「リズムさえ合っていれば何をやってもいい」
というように、あらゆるしばりを無化する。
このようなジャンルに、フリー・ジャズがあるとすんどめは考える。
すんどめ自身はこのようなジャンルも大好きだが、やはりどこまで行ってもマニア向けの位置づけをまぬがれず、広く大衆から支持されるのは困難である。
それだけなら別段、本人たちも納得ずくでやっているので問題はないが、えてしてチーム・ワークそのものが崩壊している作品も、ごくまれにではあるが、見かけるから残念である。
各人が自由にやり過ぎるあまり、バンドの仲間の音を聴かなくなり、仲間がどんなパスを投げてきてもおかまいなしに自分のプレーに陶酔してしまう。
これでは、せっかくのバンドの音楽なのに、チームでやることの意味が半減して、残念なのである。
(ただし、このような失敗例は決して多数派という訳ではなく、成功している偉人だってたくさんいる。)

では、後者の考え方、

主役だけがアドリブで演奏する

について考えてみよう。
これこそ、極めて合理的で、一般に受け入れられやすい、最適に近い解の1つであろう。
アドリブと聞いただけでとっつきにくい印象を持たれる方も、ご自分の好きなポップス歌手の方が、ライブの途中、お客さんの熱気に応え、テンションが高まるあまり、一部を楽譜通りでなく歌ったり、歌詞をわざと替えたりする場合を思い出して頂きたい。
あれが、まさにそれである。
主役としてソロをとる人が、アドリブで暴れてみせることでお客さんをより盛り上げる、というこの考え方は、極めてふつうである。
そのとき、伴奏の人々つまり脇役たちは、基本的に秩序だった演奏をすることで、主役が好き勝手できるよう支えるわけである。
伴奏者たちが必ずしも楽譜通りにやる、という意味ではない。
完全に楽譜通りにやるジャンルもあれば、伴奏者たちにもある一定の秩序の下でのアドリブが許されているジャンルもある。
すなわち、伴奏者たちもアドリブをやるのではあるが、しかしそこにはきっちりとした秩序があって、その枠の中でのみアドリブをやるにとどめることで、主役のより自由なのびのびとした演奏・歌唱を目立たせる。
こうした手法をとりつつ、なおところどころで主役を入れ替えたり、複数の楽器が同じ長さずつのアドリブの「かけあい」を演じたりすることで、各人に花を持たせ、見せ場を作ることもできる。
すんどめの考えでは、伴奏者が基本的には楽譜通りにやって主役が一部にアドリブを採り入れるジャンルの代表に、大きなバンドによるスウィング・ジャズがある。
そして、全員がアドリブをやりつつも、主役と脇役で自由度に差を設け、あくまでもその場その場の主役を目立たせるというジャンルの代表が、小さなバンドによるモダン・ジャズの大半と言えるだろう。
(スウィング・ジャズにも小さなバンド編成のもの、モダン・ジャズにも大きなバンド編成のものはあって、その自由度もさまざまなので、誤解なきよう。)

さて。
これでもまだつまらない、もっと面白いものを聴きたい、他に解決はないのか、というマニアック過ぎるニーズに、いよいよもって応えてくれるのが、われらがマイルス・デイビスというわけである。
すんどめの考えでは、マイルスの音楽とは、こうである。
やはり、誰が主役という区別を設けたくはない。
かといって、ハーモニーにしたくはない。
なんとなれば、楽譜から自由でありたいからである。
主役だけでなく、全員がアドリブを採り入れて自由に演奏したい。
それも、素朴な技法だけではなく、多彩な技法を縦横無尽に駆使してだ。
かといって、「俺が俺が」と出しゃばるあまり、チーム・ワークの存在しない無秩序なだけの音楽にもなりたくない。
では、どうするか。
それは、こうだ。
マイルスのバンドでは、「俺が俺が」という主役級の演奏をやろうと思えばいくらでもできる実力を持った人たちだけがメンバーであり、その彼らが、あえて仲間を信頼し、「抑制的なアドリブ演奏」をするのである!
「俺が俺が」と自分だけがボールを持ってドリブルするのではなく、すぐ仲間にパスを投げる。
すると仲間は、そのパスに刺激を受け、
「おっ、お前がそう来るなら俺はこうだ」
と、自由な発想で、しかし自分を抑制してすぐにまたパスを出す。
このくり返しである。
テナー・サックスの人がぶりぶりっとパスすれば、ドラムスの人がどっどどどっと打ち返す。
その打ち返されたボールを、ピアノの人が受け取ってぱぱーんと投げ返せば、今度はそのパスをベースの人がぶーんと言って受け取る。
そしてわれわれ聴衆は、そのキャッチ・ボールを聴くのである。
マイルスのトランペットだけを聴くのでもなく、かといってテナー・サックスだけを聴くのでもなく、ピアノだけを聴くのでも、ベースだけを聴くのでも、ドラムスだけを聴くのでもない。
彼らが常に投げ合っている、そのボールを耳で追うのである。
実際、マイルスの初期から後期まで一貫して、彼のバンドの作品を聴くと、マイルスのトランペットだけが目立っているという印象はまるでなく、いったい誰が主役なのか分からない。
マイルスの名を冠するレコードであり、マイルスはバンドのリーダーでもコンセプターでもあるのだが、音の上で彼のトランペットが主役かというと、全然そうではない。
かといって、ハーモニーではない。
全然、ハモっていない。
つまり、単なる歯車・部品として全体に貢献しているような楽器は1つもない。
まさに、全員が「主役」である。
換言すれば、全員が互いを信頼し合ってアドリブで投げ合うその目に見えぬボールこそが、「主役」なのである。

では、リーダーであるマイルス自身は、演奏の上ではどのような役割を果たしているのだろうか。
それは、馬車にたとえると御者である。
マイルスは、素晴らしい馬たちの手綱をしっかりと握っており、馬たちに全幅の信頼を置いて、原則、彼らがひた走るのに任せている。
しかし、ときおり馬たちに、ぴしゃっと鞭をくれる。
それも、極めて独創的な鞭の振るい方で。
これが刺激となって、馬たちはより素晴らしい走りを見せる。
むろん、それぞれの馬が好き勝手に走っているのではなく、馬どうしの間にも超越的な信頼関係があって、互いに刺激を与えあっていることはすでに見た通りである。
すなわち、メンバーどうしの自由で独創的なパスが、円滑に、かつ芸術的なきわどさをもって回るよう、全体を見渡し常に刺激し続けるのがマイルスの役割であり、真の意味でのバンド・リーダーたるゆえんなのである。

ちなみに補足をすると、先に述べたフリー・ジャズのほうが、マイルスの音楽よりも歴史的にはやや後発である。
しかし、内容的に見れば、果たしてどちらのほうが新しい音楽と言えるかは、難しいところではないだろうか。

以上、マイルスのやり方を専門用語なしで、シロウトのすんどめなりに、なんとか語り終えたのであるが、では果たして、これが音楽として気持ちいいかどうかが、最も重要である。
何をやろうが、結局、聴いていて楽しくなければ意味はない。
なるほどマイルスの音楽は、ともすれば抑制的・禁欲的に聞こえ過ぎるきらいがあるかも知れない。
あるいは渋過ぎたり、暗過ぎたりといった印象を持たれる向きもあるかも知れない。
はたまた、激しい演奏に関しては音の洪水のようで一体どの音を聴けばよいのか分からない、ということもあるかも知れない。
そもそもマイルス自身のトランペットの音は、ひどく硬くて冷たく、あまりにも鋭く残酷な響きを持っているとは確かに言える。
しかし、自信をもってすんどめは証言する。
マイルスの音楽、すなわち彼が牽引する「音のつながり」は、とてつもなく気持ちよいのである!
すんどめは頭が痛いとき、あえてマイルスを聴く。
どの時期の作品でもよい。
聴いていると、自然に頭痛が治る。
嘘ではない。
一見、頭痛を悪化させそうな音楽なのに、これは本当に不思議なことである。
大衆音楽として素直に大衆に受け入れられようとせず、ひどくヘソ曲がりで不自然なことをやっているように見えながら、実はとても素直に「かっこいい」ことを目指し、最も自然なことをやっているように聞こえる。
きっとマイルスという人は、単純にかっこいいことをやって女性にもてよう、男性たちから嫉妬されようとした人であり、音のつながりというバンドとして当然のことを追求した人だった。
つまり、ミュージシャンなら誰でも目指す当たり前のことを、真にとことん極めたために、かえって一見とっつきづらく、分かりづらくなった人なのだ。
その証拠に、多くの人から愛されるアイドルやスター歌手、スター俳優のようなカリスマたちを、見よ。
多くの人から受け入れられるカリスマには、どこか必ず、かっこ悪いところがあるではないか。
天然ボケであったり、ちょっと八重歯がかわいかったり、どうしても苦手な食べものがあったり、多くの人からはかっこいいと思われていないような地域の方言をしゃべったり。
何かしらつっこみどころがあるからこそ、そこに親しみが生まれ、分かりやすい人気となるのではないか。
その点、ストイック過ぎてかっこよ過ぎてつっこみどころのない人というのは、愛想がなくて(一部のカルト的なファン以外には)親しまれないという傾向がないか。
マイルスは、きっとそういう、とっつきづらいカリスマの最たる例なのである。
たとえば、これは音とは関係のないことだが、マイルスは一時期、観客に背を向けて演奏していたことまであった。
また、舞台の上で演奏の合間におしゃべりを入れることもほとんどない、という時期も長かった。
こうした無愛想な態度には、彼なりのまっとうな理由があったのだが、いずれにせよそうしたマイルスのイメージと相まって、彼の作風もまた、親しみづらい印象を持たれがちなことは否めない。
が、実は彼自身、究極にかっこいいことをし、究極に気持ちのよい音を出したかった結果、このようなことになったのだとすんどめは思う。
それは彼の前半期だけでなく、後半期に関しても、何ら変わることはない。

さて。
以上のようなマイルスの性質を踏まえ、では、マイルスの音楽はいかにして音楽の歴史を変えたのか。
換言すれば、マイルスの影響をどのように後世のミュージシャンたちが受けたのか。
このことについて見てみよう。
ロックというジャンルに詳しい方なら、「音のつながり」を重視するのはバンドマンとして当たり前だ、と思うかも知れない。
それは確かにその通りで、たとえばレッド・ツェッペリンというハード・ロックのバンドは、4人のメンバーが全く同じ力で、誰が主役ということもなく、極めてアドリブ色の強い、ライブごとにまるで違う演奏をしてくれる。
互いに、非常に刺激的なパスを出しあうことも忘れない。
その意味では、レッド・ツェッペリンもまたマイルスのフォロワーということができよう。
ロックの世界には、マイルスのDNAが脈々と受け継がれていると信じたい。
一方ジャズ畑そのものでは、カサンドラ・ウィルソンという人がやはり面白い。
カサンドラ・ウィルソンは歌う人である。
かつ、バンド・リーダーとして音作りの責任者をも務める。
しかし興味深いのは、彼女の作品を聴くと、彼女の素晴らしい歌声が入っているにもかかわらず、歌が主役という感じがしない。
かといって、他のどの楽器が主役というのでもない。
まさに、音と音とのつながりの気持ちよさで、われわれを引っ張ってくれるのである。
カサンドラの作品にもまた、すんどめの頭痛を治す効用が実際にある。
彼女がかつて出した『トラベリング・マイルス』というアルバムは、その名の通りマイルス・デイビス関係の作品をカバーした1枚なのだが、それは彼女がよく人から、
「マイルスの音作りに似てるね」
と言われることがきっかけで制作に至ったものなのだという。

しかしその一方で、「音のつながり」を主役に据えるマイルスの音楽を、完全に消化し、さらにその次世代の音にまで進むことのできた音楽家が、果たしていただろうか。
もしまだいないのだとすると、世界がマイルスの影響を真に受けるのは、これからだ。

参考文献:『完本マイルス・デイビス自叙伝』(宝島社)

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