チョコの断面
チョコレートの断面を研究するように、小さなキャンディーチョコレートをもったいぶって2口で食べてしまった時、世界の秘密を知ってしまったような感覚に陥った。
ショッピングモールのおもちゃ売り場で我が子におもちゃを買い与える親よりも甘く、カフェで働いている無地しか似合わなそうなくるくるパーマのお兄さんの「いらっしゃいませ」と同じくらい甘いミルクチョコレートの中には、内に秘められたイチゴチョコレートのピンクがあった。確かな色のコントラストで。
困るよ、イチゴチョコレート。先に言ってもらわないと困る。
私にだって外面というものがある。隠すつもりもないのが外面で、簡単に言えばそれは使い分けであって、そしてそのどれもが自分であることも知っている。
世界の秘密のようなチョコレートとは真逆だ。
見た目は様々なイチゴチョコレートでも、ホワイトチョコレートでも、抹茶チョコレートでも、中身は確実にビターチョコレートな私だ。
(※ミルクチョコレートよりもビターチョコレート派なのです)
キャンディー包みを開けた「たった」「ほんの」一瞬で、まだ少し寒い春の桜のような薄ピンクを「イチゴ」、3月の14日っぽい白を「ホワイトチョコレート」、日本を誇るような緑を「抹茶」、なんて見極めて欲しくない。
さらに一口食べただけで、「やっぱりね」とも思わないくらい無意識に「イチゴだ」「ホワイトチョコだ」「抹茶だ」と思われたくはない。
できれば断面を覗いて、内に秘めたビターチョコレートな私を見つけて欲しい。イチゴのような明るさの奥にあるビターチョコの闇と、ホワイトチョコレートのような潔白さの奥にあるビターな暗さと苦さ、抹茶のような優しさの奥の優しくなれないビターな私。そんな私を見て欲しい。
自分だけが知ってれば十分とも思うけれど、イチゴでホワイトチョコレートで抹茶な私はビターなんだと気が付いて欲しい。
だからこそ、誰かのチョコの断面の世界を見逃したくない。
イチゴなあの子も、ミルクチョコレートを飼っているかもしれないし、丸ごとイチゴを抱きかかえているかもしれない。ピスタチオな彼はマカダミアを隠し持っているかもしれない。はたまた、ビターチョコの上司は最後までビターチョコで、ホワイトチョコの後輩はホワイトチョコを貫いているかもしれない。
チョコの断面を侮ることなかれ。
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