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おめかしした字で

万年筆で少し背伸びをする。

ジェットストリームでもいいじゃないか、という筆箱からの圧に負けじと、万年筆が入ったもう一つのペンケースにメスを入れる。

母がくれた万年筆は眠るという言葉を知らない。オーナーが頻繫に使うことで状態の良いままでいてくれる。

因みに、赤インクの万年筆は永い眠りについてしまい、気が付いたときには恐ろしいほど尖った先っぽに血のようなインクを固く詰まらせていた。

万年筆で書く字は、ちゃんと万年筆に足並みを揃えてくれる。まるで、その片方に尖った鋭利な接点に導かれるように。

万年筆で手紙を書くときは背筋がピンと伸びた気になる。まるで、黒を凌駕する漆黒なボディと似た色の背広に袖を通した朝のように。

毎行毎行、少し自分を偽ったような字で綴るおめかしした文になる。

万年筆で何を書こうか。

少しおめかしした字で何を書こうか。

超が付くほど一方的なコミュニケーションツールである手紙には、超が付くほど片思いの文をつらつら並べる。

紙の上で返事が返ってこない質問を投げ、線の上で相槌の無い報告会を開く。

「お久しぶり」と相手のいない紙に向かって手を上げる。「またね」と相変わらず誰もいない紙に向かって手を振る。

祖母の出発前の火の元点検のように、封をしてしまう前に慎重になる。

そして、おめかしした字で書いた手紙を「いってらっしゃい」と真っ赤なあいつの元へ送り出す。

片思いへのお返しをポストに見に行く日常の、始まりの合図だ。


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