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ナカムラタツヤ個展 『TRACE 記憶をなぞる』に参加して

凍える春分の日に

大学時代の同級生(とはいっても僕はほとんど大学に行ってないのだけど)のナカムラタツヤくんがちょっと変わった場所で展示をすると言う。
しかもそのオープニングで、これまた10数年の知り合い松岡さんが踊ると言う。

凍える春分の日3/20(水・祝)に「Manoma」という場所を探して彷徨う。
Googleマップは「ここだ」というのに見当たらず、何度も行き来してると、薄暗い部屋の中に松岡さんの顔を発見。
他のイベントでお客さん同士で会うことはあっても、実際舞踏をみるのは久しぶり。

時の流れに身を任せること、時の流れに抗うこと

奥の2階へ上がるとナカムラ君がいた。
錆色の生き物が這ったあとのような跡。そこに夕方の弱い光が差し込んでいる。
屋根裏に棲む何かがじっと僕らを観察しているような。
ナカムラくんは「時間」を目に見えるものに置き換えようとしているようだ。
過ぎていく時間。一方通行で確実に、平等に過ぎていく時間。
ここで表されているものは
「時の流れに身を任せる」こと=雨風で酸化する釘や鉄。
「時の流れに抗う」=壊れゆく壁を修復しようとする僕ら。
というまったく異なる二つのベクトル。

抗うという行為によって描かれた文様

それは古代の壁画のように「記したい」気持ちではなく、現状を可能な限り維持しようとする欲望よってのみ描かれている。
錆びて朽ちていくものへの愛情と、抗う人間への愛情。
どちらも感じる作品群。
時間は誰もが逃れられない、終わることのないテーマだし、その都度表現を変えることも容易なテーマでもある。

表現として表に出てきたものは刹那的な哀しみと、延々と続くゆるやかな波。
この展示場所のために作られたともいえる鈍色の作品が、夜が深まるにつれその輪郭がおぼろになる。

他者と触れてはじめてうまれる「音」

廃材を燃やし、その灰を固めたブロックがサークルを作っている。
観客がひとつづつ、空いた場所にそのブロックを並べる。
舞踏はそこからはじまった。

時計のようなサークルをさかさまに回りながら松岡さんは逆行する。
錆びた鉄が床に触れ、小鳥のように鳴く。

ちりん、ちりん。
静かな、凍りつく部屋で、音は生まれ、消える。

鉄だけでも、床だけでも音を発することはできない。
誰かと、何かとぶつかることで音は生まれる。音楽になる前の音。言葉が生まれるずっと前の音。
風を切る音、風に踊らされる音のように自然発生する音と
他者とぶつかる時に生まれる衝撃音。

「自」と「他」のどちらの存在も容認することから音は生まれる

あつめられた釘が、手のひらから手のひらへこぼれ落ち、そこにとどまることなく床へ落ちる。
とても印象深いシーン。
手から手へ、伝えることを大切なことだと教えられた。手にすることが大切だと。
でも受け取ったほとんど全てのものは、手のひらに残らず、こぼれ落ちてしまう。僕らはそこに喪失を感じる。
受け取らなければ、こぼれ落ちたことに悲しむことはない。

何かを受け取り、それを留めておくことができなかったとしても、その何かは僕らを「通過」している。痕跡はなくとも、一度触れたことは消えない。
手のひらに残らなくても、それは大地に落ち、音を生む。
その音を聞くこともできる。
全てを肯定するような優しい音。

時の流れによって錆びついた釘の音はやさしく、ささやかだった。
新品の釘の音はどんなだろう。

展示をするということ

僕はアートという言葉にあまり良い印象を持っていない。
エゴと権威と政治に絡め取られた欲望の匂いがするから。
生活者全てが「表現者」だという気持ちもあるし、一部の「芸術愛好家」の嗜みとしてのアート(という言葉も含めて)が苦手だ。

このところ思うことは
「表現をする」=「腹を括る」ことかもなあ。
時間と情熱をかけた作品を、会場を借りて展示する。そんな手の込んだことをしなくても、「毎日の生活がアートなんだからいいじゃん」と思っていた。
でも違う。
やるか、やらないかは違う。
生きる原動力になる。何かを決めてやり抜くというのは。

同級生がそんな腹を括った活動をしていることに喜びを感じるし、自分以外の「他者」が同じように生きていることも実感する。

とても寒い春の日に、スパイスカレーを食べながらそう思った。
そして僕はやはり、喋り過ぎた。

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