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夕陽が太平洋に沈む時 【第7話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

「いいわ、どんな分野だって初めての時がある。とりあえず原文に忠実に訳して、特許特有の言い回しはあとで直してもらえばいい」
 
 麻衣は翻訳を始めた。

 しかし特許明細の翻訳はそう単純にはいかなかった。何回読んでも何通りにも取れるような文章が多かった。それでもようやく1枚目の翻訳を終えた時、PCの時計は午後8時を示していた。

 外資系企業であることもあり、クリスマスイブのその晩には、家族のある社員、あるいは若い女性はすでに退社していた。苦戦の末2枚目を翻訳した時は9時半になっていた。

 その頃には、オフィスからはほぼ人影が消えていた。

 麻衣は欠伸をしながら、廊下に設置されている飲料の自動販売機まで歩いていった。ブラックコーヒーを購入するつもりであった。廊下にも人影は無かった。

 自動販売機の横には6人用の白い丸テーブルがあるのだが、そこに麻衣に背を向けて座っている男がいた。

 麻衣は多少安堵した。人影のないオフィスに夜一人で残っているのは、気味の良いことではなかった。

 座っていた男が振り向いた。剛史であった。

 彼は驚いたような表情を見せた。

「君、どうしたんだい?こんな遅くまで」

「帰り際に急ぎの仕事を頼まれてしまって。部長は、通常こんなに遅くまで仕事をされているのですか?」

 剛史は一瞬、表情を綻びさせた。

「そうだなあ、大体こんな感じかなあ。一人で仕事をしていると落ち着くんだ。家に帰っても誰が待っているというわけでもないしね」

 麻衣は剛史の薬指を盗み見た。

 指輪は無かった。35歳の若年にして部長、長身で引き締まった体躯、鼻筋がスッキリと通りバランスの整った容姿。麻衣は、一部の女性社員が彼に憧れていることを知っていた。

 彼が未婚であったということは、麻衣には意外に感じられた。

 剛史はコーヒーの紙コップを、「資源リサイクル」と印刷された箱に丁寧に置き入れ、麻衣に向かって軽く目礼をして自分の席に戻った。

 オフィスに未だに人が残っていることを知り、麻衣は多少心強く感じた。

 3枚目の文書は、2枚目から切り貼りを出来る部分が多かったので効率が上がった。

 麻衣は、ふと背後に人の気配を感じた。振り向いたところには、剛史が立っていた。

「僕はもう帰ろうと思っているけれど、そうなるとこのオフィスには、君と、隣の部屋の岡田課長しか残っていないことになる。彼は女性に対して、上品な言い方で言うと、非常に興味を持っている。その仕事、どうしても今晩中にやらなくてはいけないのかい?」

 この仕事をこのまま打ち切って、彼と一緒にオフィスを出られるとしたら、どんなに救われることかしら。

「社員の方に約束したことですので。それにあと2枚だけですから」

「差し出がましいことかもしれないけど、その書類、ちょっと見せてくれるかな」

 麻衣は、特許明細書の4枚目と5枚目を剛史に手渡した。

「ああこれか。よし、特許明細書なら僕は翻訳したことがあるよ。これ借りるよ。終わったら、君のところへメールしておくから」

 と言って、剛史は書類を自分の席まで持っていった。麻衣は驚いて彼の席に駆け寄った。

「部長、いいんです。私が引き受けた仕事ですし。どうかご自分の仕事をなさって下さい」

「僕の方はもういいんだ。時差の関係もあるし、クリスマスには休日になっている海外事務所も多い。そうだ、4枚目も3枚目から切り貼りが出来る部分が多い。君が4枚目を翻訳している間に僕が5枚目を翻訳するよ。君が翻訳したものを送ってくれないか?語調を合わせるから」

 麻衣は恐縮しながらも、剛史の申し出を受け、4枚目を翻訳し始めた。

 麻衣が翻訳を終えた時、時刻は既に11時をまわっていた。

 ベージュのトレンチコートを肩に掛けた剛史が、麻衣の席に立ち寄った。

「君のメールアドレスに送っておいた。難しかっただろう、専門でもない人にあんな荷の重いものをやらせて。醜いなあ嫉妬は」

 麻衣の剛史に関する印象の一つは、冷静さを崩さない人、であった。その剛史が憤りを表していた。

「嫉妬?」

「いや、なんでもない。君は派遣さんだったね。ここの正社員と別に深いつきあいをする必要もないから、気の進まないことは断わりたまえ。大体クリスマスの日に締め切りの特許申請など、僕の知っている限りでは無いはずだ。さあ、PCを落として帰りなさい。駅まで送っていくよ」

 麻衣は剛史の思いやりが有難かった。

 会社のビルを出た時、冷たい風が麻衣の頬を打った。ビルの中にて長時間根詰めていたため、12月末の東京の風が新鮮に感じられた。緊張が抜けた途端、麻衣は空腹を覚えた。

「部長、いろいろと有難うございます。お礼になにかご馳走させてください。今晩はクリスマスイブですし、この時間なので、お洒落なところは難しいかもしれませんが」

「気持ちは嬉しいけれど」

 剛史は首を左右に振った。

 断られるんだわ、私ったら少し厚かましかったわね。

「女性に奢られるのは好きじゃないんだ」

「ごめんなさい」

「僕に奢らせてくれるというのなら、是非何か食べにいこう」

 そういって剛史は、並びの良い白い歯を見せた。

「え、部長が。でもそれじゃ」

「どうせ食べるんだから一人より、二人のほうがいいじゃないか。一応今日はクリスマスイブなんだし。ただし、僕はおしゃれな店と言うよりは飲み屋派なんだなあ、美味しい小皿料理を食べながらビールっていうのが僕のお決まりコースなんだけど、君はそういう雰囲気じゃないね」

「私はどういう雰囲気なんですか」

「上品なフランス料理って雰囲気かなあ」

 麻衣は苦笑した。如何に目立たぬようにと地味さに徹しても、外見の印象とはなかなか変えられない。

「私、10年前までモデルをやってました」

「そうか、そう言えばそういう噂がちらほらあったな」

「それってきっと部長のおっしゃるフランス料理のイメージでしょう、でも私、それが嫌で足を洗ったんです」

 剛史は噴き出した。

「足を洗った、か。じゃあ僕が飲み屋であぐらをかいても、眉をひそめないでいられるかい?」

「あぐらのかきかたにも依りますけど」

 剛史は笑った。

 普段、目も合わせずに「お早うございます」、と声を交わすだけの隣の部の部長と、クリスマスイブの夜中に一緒に渋谷を歩いている。

 麻衣は、随分と久しぶりに気持ちが浮き立った。長い一日の疲労困憊などいずこかに昇華されてしまったようであった。

 二人は、大通りから脇道に入ったところの一件の居酒屋に入った。大きくはないが、料理が非常に美味しいという剛史のお墨付きのその居酒屋は、非常に混んでいた。客層は年配の男性が主であった。相席を強いられ二人は木作りの長椅子の一番端に押しやられるかたちになった。

「ごめん、こんな落ち着かないところで」

 すぐ隣に押し詰められている剛史の声は、耳に息が掛かるほど近かった。剛史の引き締まった太腿が麻衣のすぐ隣にあった。

 狭い店内は話声の音量が高く、剛史と話をするためにはお互いの耳元で叫ばなければ何も聞こえなかった。

 剛史の腕と触れるつど、麻衣は腕に静電気のような刺激を感じた。

 麻衣は、自らが現在置かれた状況に対して困惑しつつあった。

 男性と密着して酒を飲む、そのようなことは、以前は何度も経験していた、しかも各段雰囲気のいい店にて。男性経験に対する免疫は十分に付いてるはずであった。

 しかし、麻衣が自分から相手に触れたいと思ったことは、あの時以来であった。

 すなわちコニーの時である。

 剛史は、ビールと店長お勧めの小皿料理を一挙に何皿か頼んだ。

 麻衣は、気分が浮き立った。また、何故か剛史と一緒にいるとても落ち着けた。このような雰囲気を持つ人には、かつて逢ったことが無かった。剛史は、1時間、お互い一言も発せずにいても窮屈に感じられないような、そのような雰囲気を持つ人であった。

 しかし、正社員と派遣社員、しかも別の部署の部長とでは、接点は何も無い。

 せめて、今宵は存分に楽しもう。長い一日、一年、十年だったもの。それぐらいしてもいいわよね。

 冷えて美味しいビール、机の上に所狭しと並べられた数々の料理、時おり触れる剛史の太腿。長い一日の仕事の後、ビールの酔いは麻衣の細い体に急速に廻っていた。

 麻衣は時おり、剛史の肩に多少もたれ掛かるようにした。

「ごめんなさい」

 と言って体勢を整え、再びもたれ掛かる。その故意的な動作は、剛史にとっては迷惑であるかもしれないことは認識していた。しかし、このような機会は再び巡って来るかもわからなかった。
 
 せめてその晩だけは、久しぶりに好意を抱いた男性の温かみを感じておきたかった。

「もう閉めるらしいな。出ようか」
 
 剛史が促した。

 そう、もうおしまいなのね。でも今まで最高のクリスマスイブだったかもしれない。

「君、少し酔ってしまったみたいだけど大丈夫かい?ふらついているな。住まいは確か参宮橋だったよね、電車の最終便は出てしまったし」

「えっ、もうそんな時間?」

 麻衣は、それほど時間が経っているとは思わなかった。剛史と一緒に過ごした時間はとても短く感じられたからである。

「部長はお住まいは?」

「僕はこの近くだけど」

「それなら今晩は泊めて下さいますか?襲わないって約束はするわ。タクシーは嫌いなの」、麻衣は、駄目もとで、冗談とも本気とも区別の付かない口調にて打診してみた。

 たとえ断られても、酔い過ぎてしまったのだ、と軽く流してもらえるはずだわ。それでも会社での居心地が悪くなったとしたら、再び派遣先を替えれば良いだけのこと。

 剛史は切れ長の瞳を丸くしたが、

「いいよ。おいで。僕も襲わないって約束するよ」、と了承した。
 
 二人は無言で剛史のマンションまで歩いて行った。

 その晩のクリスマスのネオンが非常に煌びやかであったことを、麻衣は記憶している。

 剛史のマンションは5階にあり、モダンかつ金属的な印象を与える2DKであった。テレビは無く、居間の壁一面に本棚があり、プログラミング、サーバー構築に関する書籍が秩序正しく並べられてあった。

 剛史はコートを脱ぐと、奥の寝室から、シーツ、毛布、枕等を持って来て居間の黒ソファの上に置き、Tシャツと使い捨ての歯ブラシをコーヒーテーブルの上に置いた。

「何から何までお手数をお掛けしてしまってごめんなさい。我儘なことは自覚しています。でも、タクシーでは嫌な目に遭うことが多いの」

 これは事実であった。

「気にしなくていい。それよりも居間のソファで申し訳ない。女性に一般的な魅力があるということは、案外良いことばかりじゃないんだな」

「一般的な魅力?」

 彼は今私のことを魅力的と言ったのよね、多分。

 容姿に関する賛辞は数回聞かされたことではあるが、剛史の口からそのような形容詞が発せられたことは麻衣を舞い上がらせた。

「私、部長の好み?」

 麻衣は控えめに問い掛けた。

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