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Vは如何にして裁かれたのか?

世間は「奇跡の三連休」であるらしい。私もそのご多分に漏れず、三連休の恩恵に与っている身である。既に2月も下旬であり、これといって重大な事件も、余り起こっているとは思えない。このため、今週は時事分析を休載し、暫し、私が好んで良く見る映画について、幾らか書き記してみることにしたい……というのは建前で、本当は「映画にまつわる思い出」というお題企画を見かけたから、これを行う気になったのだ。今日はネクタイを緩めて、私の気紛れに少々の時間、お付き合いいただけないだろうか?
……沈黙は肯定と、受け取ることにしよう。

さて、では早速、この記事で取り上げる映画だが、その題、ワーナーをして「V for Vendetta」である。
御存知の読者は居られるだろうか? 私のこれまでの浅薄な人生に於ける統計では、この映画を知っている人間は殆ど居らず、況して、鑑賞した人間なんて一人も存在していなかった。とはいえ、決してマイナーな映画という訳ではない。監督はあの「マトリックスシリーズ」を手掛けたウォシャウスキー兄弟(今はウォシャウスキー姉弟)であり、主演はマトリックスシリーズでエージェント・スミス役だったヒューゴ・ウィービング、この映画の後にブラック・スワンを主演した大女優ナタリー・ポートマンである。この配役からしてみても、当時のワーナーがこの映画に本腰を入れていた様が目に浮かぶ……と、少なくとも筆者には思われる。また、原作は「ウォッチメン」や「プロメテア」で知られている作家のアラン・ムーアであり、彼はグラフィック・ノベル界の雄であるから、原作の知名度もバッチリだ。さらに、主役のVが被っているガイ・フォークスマスクは、あのハッカー集団「アノニマス」の象徴となっていたことも有名である。一説によると、アノニマスはこの作品に影響を受けているとされている。そんな映画が、V for Vendettaだ。まだご覧になっていない方は是非、Amazonプライムで配信されているので、一度ご覧いただきたい。
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何、悪い思いはしないだろう。あらすじは、要約して言えば、陽気なアナーキストによる復讐と革命が主題のアクション……もとい政治スリラーである。マルクスの資本論を気難し気に読むよりも、革命というものの方法を分かりやすく、また、国家というものの罪業も分かりやすく、我々に提示してくれることであろう。
そんなV for Vendettaであるが、私はこの映画が好きで年に何度か見直すものの、一つ、不可解な場面が、あるのだ。それは、この作品で有名なウェストミンスター宮殿が盛大に爆破される場面でも、ナタリー・ポートマン演じるアイヴィーが剃髪されて苛烈な拷問を受ける場面でもない。
……アイヴィーがVに対し、貴方は間違っている、と、宣告する場面である。
この場面に至るまでのあらすじを以下に簡潔に述べよう。なるべくしない様に気を付けるが、ネタバレを含むので、未視聴の読者諸賢は要注意である。
まず、この物語の主人公であるVは、ある国家機密プロジェクトに関係した人間を殺して(=復讐して)回っている。その中で、アイヴィーという自分を助けた女性を匿い、そして裏切られ、裏切った彼女に対して拷問を行い、彼女に自由というものを理解させる。その後の彼女に「貴方の行ったことは間違えている」と宣告され、アイヴィーが去った後に一人残ったVは自分がこれまでに行ってきた復讐を悔い、嗚咽の内に場面転換……という風だ。私には、どうもこの場面というのが解せない。
そもそも、疑問があるのである。
アイヴィーは何故、Vの行いを過ちだと考えたのか?
それが作中では明瞭に示されていないのだ。無論、普通に考えれば、Vの行いというのは確かに間違いであると、考えられはする。殺人は明らかに罪悪であり、たとえその対象が誰であろうとも、我々がそれを行った場合には、我々は幾らかの罪咎を負うこととなるだろう。けれども、けれども、である。その対象が、極悪人であった場合、特に、自分の目的のためならば幾らでも他者を犠牲にしてきた様な類のサイコパスであった場合、果たしてそれは、罪咎のみを、我々に齎すこととなるのであろうか? 私にはその様には思われないのだ。Vが復讐してきた人物達は、押し並べて極悪人、と呼んでも良いほどの人間達である。それも、今すぐにでも排除しなければ、我々に直接被害を及ぼしかねない様な、そんな危険人物だ。要は、殺さなければ我々に対して害を齎す……言葉を過激に変えれば、我々を支配し、殺すであろう存在である。果たして、その様な存在を、自ら殺人の咎を背負ってまで排除したVを、アイヴィーはどの様な審級を以て、悪であると断じたのであろうか? 私には、それが分からないのだ。
人を殺すのは悪いことだ。その様な通俗的な、単純な倫理的観念から、Vを彼女は断罪したのだろうか? そうだとすると、彼女は二重基準の持ち主である。彼女は作中でVを売り、彼を間接的に抹殺しようとしている。未遂ではあれど、彼女も同罪であろう。自分を棚に上げてVを裁く立場に、彼女は無い。
或いは、もっと、より高度な倫理的判断が、彼女の中には存在したのだろうか? 例えば、法を犯した人間は法によって裁かれるべきであるとする近代国家の模範的市民の思考が考えられる。しかし、作中世界に於いては、そもそも復讐の対象、法を犯した悪人どもが法を取り仕切る立場にあるのである。法は機能不全であり、そうなった場合、法の支配者である悪人を裁くことは出来ない。以て、個人にその機能が委ねられることになるだろう。映画ではないが、原作のV for Vendettaでは、作中でアレイスター・クロウリー(もといフランソワ・ラブレー)の「汝の意志することを法とせよ」が引用されている。

法亡き作中世界で、Vは正しくこの命題を基に行動したと言えるだろう。それならば、アイヴィーも自らの法によって、Vを裁いたのだろうか? だとすると、復讐を是としてきたVの意志を、彼女、アイヴィーが変えたというのであろうか?
或いは、そもそもV自体、自らの行いを心の何処かで悔いていたのかも知れないし、それがアイヴィーによって表面化しただけなのかも知れないが。
しかし、Vの行いは確かに私怨に依る所も大きいのであるが、法で裁くことの出来ない罪人を、特に絶対的権力の座に就いている罪人を裁くということについては、彼に対して情状酌量が与えられても良いと、私は思うのだ。Vは無論、殺人を犯しているが、その殺人は絶対に必要なことである。
けれどもこれは、ある意味、危険な思想である、とも、私には思われる。というのも、何らかの理由があって何らかの罪が肯定されるということは、その行われた罪を暴走させかねない危険があるが故だ。オウム真理教事件を思い出せば良い。彼等は「救済のためならばポア(=殺人)も赦される」と論じていた。この根底にあるのは、正しく、目的による行為の肯定である。
と、いう風に、私のこの場面に対する疑問というのは尽きない。まあ、所詮、映画に描写されたのみの一場面を扱っているだけであるから、そもそも答えなどは無い、と言えるのだが。或いは、通俗的な道徳を持っている我々視聴者の、多少の共感を得るために、この場面をウォシャウスキー兄弟は入れたのかも知れない。罪を犯してそれを悔いない、そんな人物を、一般的市民は狂人と見做すだろう。そこでVをあくまでも英雄的に描写するために、一般的道徳を持つと思われるアイヴィーにVを批判させ、Vの悔悟を見せることにより、視聴者の共感を得ようとした、という技巧的な(あざとい)場面が、この場面であったのかも知れない。

以上が、「V for Vendetta」についての、私の思い出(というよりも思い入れ)なのだが、それにしても、やはりこのV for Vendettaという作品は、この様な論説に耐えうるほどの作品である様だ。
名作であることに、疑いはない。
読者諸賢も、この三連休中に鑑賞されてはいかがだろうか?

#映画にまつわる思い出

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