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『「恐怖」の解体 意図的再感覚化法』試し読み

本稿は「解体」論書 第5巻として発売した『「恐怖」の解体 意図的再感覚化法』の試し読みである。
ここに第一章全文を試し読みとして公開する。
本稿は、これから発生が予測される演出された危機によって生ずるであろう「恐怖」に踊らされない様にするための基礎理論、及び方法を記している。
興味のある読者は是非、文章の最後に貼り付けてあるURLから、Kindleにてご一読されたい。

1,序言
 本稿を記すに当たり、まず、昨今の出来事を回顧してみることとしよう。例えば、最初に想起されるのは、我々を凡そ2年間程脅かし、戦かせ、恐懼の泥濘へと引きずり込み、そして社会の様々な部分を変革(壊変?)させるに至った、あの忌まわしき新型コロナウイルス(COVID-19)に関する一連の出来事である。思い返せば、様々な事象が生じた。一斉マスク、濃厚接触者の隔離、ロックダウン、リモートワーク、強制接種……。誠に色々なものが起こったものだ。2023年12月下旬現在の我々は殆どコロナウイルスパンデミックが終息を迎えた様な面持ちを堂々とその顔に貼り付け、マスクの白布を纏わずに外出し、闊歩している訳であるが、少々ここで思い止まってみたい。そもそも、状況は変わったのか。いや、何も変わってはいないのだ。この程、戦後に於いて最大級の人口減少や超過死亡数を経験し、あいも変わらず新型コロナウイルスの変異株が流行しているらしく、況して「公的な」機関からパンデミックの終息宣言が出されたことなど、無いのだ。また、継続してコロナウイルスワクチンの接種も行われており、新型のレプリコンワクチンまで開発される有様である。更に、WHOを中心にパンデミック条約の締結が急がれ、件の(曰く付きの)条約は、毀誉褒貶に曝されつつも締結されようとしている。以上を鑑みると、どうも、筆者としては新型コロナウイルス騒動当初から、何が変わったとも思われないのだ。しかし、我々は何かが変わったと直感し、マスクの着用を止め、リモートワークを投げ出し、ワクチン接種を怠惰にも受けないのである。……無論、今に於いても、新型コロナウイルスを気にされている向きは居られることであろうし、全ての人間が恰も新型コロナウイルスパンデミック以前の生活様式に戻ったとは、筆者も考えない。だが、殆どの人間は、状況が変わっていないにもかかわらず、恰もコロナ前の「失われた時を求め」るかの如く、以前の暮らしぶりを取り戻しているのである。これは大いなる矛盾であろう。つまり、我々の生活がコロナウイルス感染症に際して変わったのには、我々の生活に幾分の変更を強いる事由が存した訳である。そして、その事由は状況が変わっていないのであるから、当然現在でもその存在を継続している筈だ。しかし、事由の継続がされているけれども、我々は、以前の生活に戻った。以前の暮らしへの帰還、我々の生活を変更するに足る事由の継続、これらが同時並立的に成立しているのは、大いに矛盾していることであろう。しかし、良く考えてみれば、これらが同時に成立する状況というのが、確かにあるのである。それというのは、二つの内の片方が、空疎なものとなり、実質的には無効な状態となることだ。即ち、片方の項が成立せず、もう片方のみが残遺している状態のことである。此度の新型コロナウイルスに関連した事象を一瞥すると、そもそも、ワクチン非接種者の死亡率が高くなく、また身辺で顕著に死者が増えたということもなく、況して新型コロナウイルスを死因とした死者、或いは新型コロナウイルスの感染者が累積で計算されるといった極めて不可思議なことが散見される。……これらから結論するに、筆者には一つの見解しか得られなかった。……そもそも、我々が新型コロナウイルスという新種の脅威に対して感じていた、自分の生活を変革しなければ己の生命が危ない、という事由は、事の始めから不成立であったのではないか。先述した様に、元の生活に戻ることと、新型コロナウイルスのために生活を変えなければならない事由の継続は、同時に不成立のものである。事由の継続は状況が継続していることからして、当然の前提であろう。けれども、我々は事実として、元の生活に戻りつつある。ということは、事由それ自体が、不成立なのだ。我々は今まで、誤った前提を措定していたという訳である。つまり、新型コロナウイルスが脅威であり、新型コロナウイルス感染症は我々の生命を脅かす重大な疾病である、という様な見解は、その初めから不成立であったのだ。何方かといえば、これらの脅威よりも、新型コロナウイルス感染症を利用して推し進められている全権委任法の制定を目的とした改憲、社会的健康を人権に優越させようとするパンデミック条約、これらの様な、我々の持つ自由や権利を剥奪せんとする権力の目論見の方が全く脅威的であろう。しかし、我々は(一部の者を除き、無論筆者は騒動当初は新型コロナウイルスを脅威と考えていた人間だが)新型コロナウイルスを脅威と考え、自由権の剥奪の象徴的(或いは予行的)行為であるロックダウンを受け入れ、戦時中の国民服への衣服統制の様な事実上のマスク着用強制を受け入れた。それをする必要など、一切存在しなかったのにもかかわらず。それも、我々が誰かに脅迫され、その言われるがままにこれを行っていた結果、という訳ではない。我々は、自ら進んで、この強制と統制を是認したのだ。平時では考え難いことである。
 次に考えるのは、ロシアによる特殊軍事作戦の結果生じた、ウクライナへの「義援金」の供与である。これはロシアに「唐突に」攻め入られたウクライナに対して何を思ってかは分からないが、恐らく、憐憫や「義憤」といった感情からなのであろう。多くの人間が、うくらいなかわいそう、ぜれんすきーがんばれ、という極めて浅薄な情念に基づいて、戦争犯罪として処罰されるに値する「戦時反逆」を行った訳である。いや、浅はかな情念のみで行っていたのでは、実際無いのだ。この根底には、実に利己的な感情の動静が垣間見えた。
 これに関連して、昨今の北朝鮮からの改憲応援ミサイルの発射が、類似した出来事としては挙げられるだろう。隣国からの脅威をして、政権与党は改憲に「挑戦」し、これを成し遂げようとしている。最も、その挑戦の主目的が緊急事態条項の制定であると声高らかに述べていることからも、真の目的が容易に悟られよう。無論、人権の剥奪を目的としているのは、「解体」論書シリーズの読者であれば筆者が態々述べなくとも、了解されておられることであろうが。
 この他にも、マスコミによる巨大地震・大災害煽りを経由した緊急事態条項の導入の正当化等、実に種々様々なことが、昨今起こったものだ。これらを概観すると、実は一つの共通点があることが分かる。それというのは、どれもこれも「恐怖」を主題とした出来事である、ということだ。例えば、新型コロナウイルス感染症に関する一連の事態。これは新型コロナウイルス感染症による生命の危機に対する「恐怖」を軸に成立したものだ。例えば、ウクライナへの義援金。これは憐れみもあるだろうが、大方は、ロシアが次は日本を攻めてくるかも知れないという「恐怖」から為された「寄付」であった。例えば、北朝鮮のミサイル発射に付随した改憲の提起。これは隣国の脅威に対する「恐怖」から成立している。例えば、巨大地震・大災害に付随した緊急事態条項導入の正当化。これもまた、巨大地震・大災害に対する「恐怖」から成ったものである。以上の様に、これらの出来事というのは、我々の「恐怖」を糧として産声を上げ、生長し、そして成人しようとしているのだった。勿論、それ以外の理由に依る所も大きいのは、確かではあるが。けれども、一要因としての「恐怖」の絶大なる寄与には、やはり注視しなければならないだろう。何しろ、我々はこの地に生えてよりこの方、「恐怖」と共に在り、そして「恐怖」こそが様々な事象を起こしてきたのだ……といっても過言ではない。
 上に述べた事共の全てが成立した暁には、誠に牧歌的で悪辣な「人間牧場」に、我々は囚われることになるだろう。或いは、新たな脅威が勃興し、我々は恐懼し、そして権力によって(彼等にとって)「最適な」解決案が提案され、それを我々が受け入れ、更なる支配の増強が進むこととなるかも知れない。最早、一切の自由も、一切の享楽も無く、果たしてそれを生と、我々は述べられるのであろうか。
 筆者はそうは思わない。であるから、筆者は最悪の事態を回避せんとするがために、「恐怖」を解体しようと思う。確かに、「恐怖」が我々の本性として根付いている以上、完璧な解体は……恐らく為すに能わぬことであろう。けれども、その影響を多少軽減することは、出来る筈だ……と、筆者は信じている。
 そのために、筆者は初めに、「恐怖」が我々の外界に対する反応の一つとして生じることから、我々の有する外界に対する処理機構から本稿を記す。そしてそれから過程に於いて、我々は「恐怖」が情念処理の一つとして生じ、更に、それを意図的再感覚化法という、サティ(気付き)の瞑想から発想した技法によって、これを解体する筈である。以上が、本稿の大まかな構成となる。
 気が付けば、本稿で「解体」論書は、記念すべき第5冊目である。ここまで本シリーズの刊行を継続出来たのは、ひとえに本シリーズの読者諸賢の存在による。本稿の序文を借りて、読者諸賢に感謝と尊敬の意を表することとする。

興味のある方は、下記のURLから本編を読まれたい。


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