精読「ジェンダー・トラブル」#037 第1章-5 p57
※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。
両性具有者エルキュリーヌは、医師や法律家の介入を受けるまでは、「アイデンティティのない幸福な中間状態」にいた、とフーコーは記しています。詳しくは次の hiyamasovieko さんの記事を参照ください。
〈われ思う〉は実際は〈思うのはわれ〉であり、まず思考が発生し、あとから、あくまで文法上の制約により、〈われ〉という主語が生じる、という議論がありました(#032 参照)。そのことをミシェル・アールは「思考が、『われ』のところに到来する」と表現しました。
フーコーの想像するエルキュリーヌには、「笑いや幸福や快楽や欲望」が発生しても、その行き先である実体としての〈われ〉がありません。なぜならエルキュリーヌには、実体の形而上学が要求するようなジェンダー・アイデンティティが成立不可能だからです(#036 参照)。
このように、男女二元体の枠組みから「自由に浮遊する」ような、「文法では把握することができないジェンダー体験」がありうるのではないか、とフーコーは示唆しているのです。
ジャイアンがホームランを打ったとします。ホームランを打つことは「男性的な属性」です。それは「うまい具合に」ジャイアンの性質です(ホームランを打つのは、いかにもジャイアンらしい)。
のび太がホームランを打ったとしたらどうでしょう(もちろん秘密道具の力で)。ホームランを打つことは「男性的な属性」ですが、それは「うまい具合」にはいきません(のび太らしくない)。
のび太があやとりの新技を披露したとします。あやとりは「女の属性」です。が、だからといって、のび太は女なのでは、と疑う人はいません。男が「女の属性」をもっていても、男は男であり、「そのジェンダーは揺るがない」です。
「基本的には無傷であるとみなしているジェンダー存在」とは、アレサ・フランクリンのところで出てきた「あなたのせいで当たり前の女のように感じる」の「女」のことです(#034 参照)。すなわち、制度的異性愛において恋愛相手が自分に投影する、自分が目指すべき「ジェンダー存在」のことで、それはイデアのようなものであり、首尾一貫した統一体であるので「基本的には無傷」です。
今はどうか知りませんが、昭和のドラえもんでは〈男のくせにあやとりなんかして〉とのび太を囃し立てるのが定番でした。なぜ男なのにあやとり好きなのか、という疑問に対して、〈あやとりはのび太が一番(一番というのは男の属性です)になれることだからだよ〉とか〈なぜだか分かんないけど(偶然にも)、あやとりが好きなんだよ〉と、派生や偶然を理由に答えるのは尤もらしく聞こえます。
が、ここで「男」をとっぱらってしまうと、〈男のくせに〉という疑問が消えてしまう上に、〈男だから一番に〉〈男なのになぜか〉という説明も成り立たなくなり、「不調和」自体が消失します。
〈男〉らしさという基準で〈ホームラン〉や〈あやとり〉に「首尾一貫したジェンダーの序列」が付与される、と思いがちですが、バトラーは逆に考えます。
「首尾一貫したジェンダーの序列」がまず先にあって、そこに「さまざまな属性を強制的に秩序づける」ことで、〈男〉という「不動の実体」が構築される、と言うのです。
バトラー によれば、ジャイアン > スネ夫 > のび太、という序列がまずあり、〈ジャイアン=ホームラン=男〉、〈のび太=あやとり=女〉と秩序づけることで、〈男〉が実体として構築されます。
もし出来杉くんがあやとりが上手だったらどうなるでしょう。この場合はのび太とは違って、〈出来杉のやろう、そんなことまでできるのか〉と、出来杉くんの完全無欠さ(これは男性的な属性です)に花を添える形になります。つまり〈出来杉くん=あやとり=男〉となります。だから序列のほうが先なのです。
このようにして構築される「名詞としての男と女」は、「連続的または因果的な理解可能性のモデル」で説明できない例外が現れた時、「疑義」がつきつけられます。
「連続的または因果的な理解可能性のモデル」とは、〈男のくせにあやとりなんかして〉を説明するさいに用いる、〈男だから〉〈男なのに訳あって〉といった、〈男〉を起点とした理由づけのことです。これで説明できない例外のひとつが、両性具有者エルキュリーヌのケースです。別の例外としてバトラーは別の箇所で、ドラァグ・クイーンをとり上げています。
(#038 に続きます)
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