徒然物語52 シャッターは語る

雑居ビルの駐車場はこの時間にしては、埋まっているほうだろう。
なにせまだ10時40分を回ったくらいだ。
 
店の前にはまだ誰も並んでいなかった。
 
11時の開店まで車の中で待っていよう。
誰か並び始めたら、自分も並ぶか…
 
本日の目当ては“薬膳蕎麦”。
 
ここを訪れたのは実に10年ぶりくらいだろうか。
十数年も前に同僚と行ったっきりだ。

 
先日、地元の情報誌を眺めていたら、不意にそのお店の広告が目に飛び込んできた。
 
懐かし。このお店まだやっていたんだ。
 
当時の記憶が蘇ってくる。
 
見た目はただのかけ蕎麦。
 
けれど、食べ始めると特段辛いわけでもないのに、体中から汗が噴き出してくる。
 
これが薬膳というものか…
 
初めて食べたときの衝撃が思い出される。
 
その後何回か通ったが、勤務先が別方向になってからは、行く機会もなくなった。
そうしているうちに、記憶からも消え失せていたのだった。
 

どこにあったっけ。今度の休みの日に行ってみるか。
 
懐かしさと、あの味を再び食べたいという思いから、フライング気味に出発したのだった。

 
目的地にたどり着いてみると、シャッターは閉まっているものの、店舗の外観は当時を想起させる趣だった。

メニューの写真、お品書きも看板も同じ位置。
店主の娘さんか、当時のアルバイトの子か、若い女の子が薬膳蕎麦を差し出し、微笑んでいるポスターも当時から貼ってあった気がする。
暖簾をくぐると、不愛想な老人店主が椅子を進めてくる。
店主はひたすら蕎麦をこさえていて、アルバイトが元気よくホールを回す…
そんな情景がありありと浮かんで、あれから10年もたったとはとても思えなかった。
 
これから食べる薬膳蕎麦も、当時のままに違いない。
 
などと、期待に胸が膨らむのを感じていた。
 
しかし、もうすぐ開店の11時になるというのに、一向にシャッターが上がる気配がない。
 
車内からちらりと見やるが、薬膳蕎麦屋は静寂を保っている。
 
ガラガラ
 
不意に威勢の良い、シャッターの上がる音が車内に響く。
 
きた!
 
そう思ってドアに手を伸ばしながらお店を見ると、なんて事はない。
隣の店舗が開店したのだった。
 
すると、車で待っていた人々が一斉に駆け寄っていく。
どうやら自分以外の人は、このお店が開くのを待ちわびていたらしい。
 
「国産黒毛和牛御膳」の看板がでかでかと掲げられ、店員さんが殺到する客に愛想を振りまいている。
 
なんだ、隣か。それにしてもおれの薬膳蕎麦はいつオープンするんだよ…
 
待ちかねて車を降り、シャッターへ歩みを進める。
 
そこに、随分前に貼られたであろう貼り紙があることに気が付いた。
 
「誠に申し訳ありませんが、本日は一身上の都合で休業させていただきます。 店主」
 
まじか…携帯のナビでは営業中になっているのに…
 
男は愕然としてその場に立ち尽くした。
 
しまった。もっと早く見ておくべきだった…
 
激しい後悔が男を襲ったが、もはや後の祭りだった。
 
やり場のない虚しさをぶら下げて、車へと踵を返す。
 
それにしても。
 
あの貼り紙は今日貼り出されたものではないだろう。
ずいぶん古ぼけていて、プリントアウトした文字も少し滲んでいた。
 
高齢だった店主の体調不良か、アルバイト不足か、材料費の高騰で利益が出せなくなってしまったのか、はたまた隣の高級御膳にお客さんを取られてしまったのか。
 
休業の理由はわからない。
わかるのは、今日のところは10年前の思い出に浸ることはできない。
ということだけだった。
 
他を当たるかぁ…
 
…またいつか食べられるんだろうか…
 
高級御膳を食べる気分にはならず、物言わぬシャッターに一瞥を送る。

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