チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・ツイスト』 2

月曜日は午前中、いつも出向先に行くのだが、今日は良いということで、午前中を無為に過ごした。

無為にと言いながら、子どものメガネの鼻パッドを修理しにイオンに行き、子どもらの昼ごはんを用意し、宿題をやらせる。

午後は、上の子を塾に送り、車の点検をしにディーラーに行き、夕食の食材を買う予定である。

その間に提出された書類に目を通して、問題的を指摘し、戻すものは戻し、受け取るものは受け取る。これは、今日やらなくてもいい仕事ではあるが、まあ、早めにやっておいて損はないので、やってしまう。

来たメールに目を通して、返すものは返す。

8月1日。ある意味で、のんびりした日ではあるが、気持ちには焦るものもないわけではない。もっと何かをやらなければならないのではないか、という焦り、現在の自分をアップデートしなくてはならないのではないか、という強迫観念もある。というよりも、置き去りにしている仕事を、本来は進めないといけない。これに、子育てを言い訳にして、目をつぶっていることが、私の強迫観念の源泉であるということは間違いない。

さて、ディケンズである。

あらすじ(2のみ)

オリヴァーは、救貧院で養われる予定だったが、条件が合わず、救貧院の「分所」に回された。そこは、お金をもらって、そうした子どもたちを養うことを生業にしている女・マン夫人が経営しているところだったが、そのお金をピンハネして、最低限度のものしか与えず、あとは自分の私腹を肥やすことだけしか考えていない場所だった。

そして、時折事故で、多くの子どもたちが死に至った。しかし、オリヴァーは「善良でたくましい精神」の加護のためか、なんとか八歳まで生き延びることができた。

そんな折、教区吏であるバンブル氏が、この救貧院の分所を訪れた。マン夫人は慌てて、体裁を取り繕おうとした。バンブル氏は、オリヴァーを連れていくというのだ。

オリヴァーは若干嬉しくなったが、マン夫人の眼差しを見て「出ていくのが悲しくてたまらないというふりをすべきだというのはわかった」。

バンブル氏に連れられ、やさしいことばや眼差しが幼少期の暗い年月に光をもたらすことがついぞなかったみじめな家をあとにした。それでも門の外に出て扉が閉まると、急に子供らしい悲しみに打ちひしがれた。あとに残していく小さい仲間たちは不幸せで哀れだけれども、彼にとっては唯一の友だちだったのだ。広い世界にひとりで出ていく孤独感が、初めて少年の胸に重く沈んだ。

p.18

オリヴァーは救貧院に戻って、委員会の前で面接を受けるが、何も教わっていないせいで、トンチンカンな答えばかりを述べる。

救貧院のルールが変わり、以前に比べて厳しくなった。

そのルールの中で、オリヴァーたちは空腹を耐えた。そして、ある時、クジでおかわりを要求する係を決め、オリヴァーはそれに当たった。オリヴァーはおかわりを懇願した。すると、委員会はそれを問題視し、オリヴァーを外部へと押しやることに決定した。委員会は「教区の手から引き取る者に5ポンドの謝礼」を払うと決めた。

委員会の白チョッキの紳士は、「あの少年はいずれかならず縛り首になる」と述べた。

はてさて、どうなるか。

感想

やっぱり暑くて感想も出てこない。

単純に、今も昔も子どもをめぐる環境は変わってないよね、とか、やっぱり親の持つ文化資本(簡単にいうと、親が経験し獲得してきた文化的ふるまいや教養などの総体)は簡単に覆せないよね、とか、そういうありきたりの感想が並ぶ。

いや、こうした素直な意見を、今までの私は押し殺してきて、どうにも息苦しくなってしまったので、「ありきたり」という言葉で、変に素直な気持ちを自粛し差異を求める必要はないのだ。

というわけで、19世紀も21世紀も、貧しい子どもをめぐる環境には厳しいものがあるよね、という諦めに似た感想をまず得た。

こうした環境にも負けず、立身していき、最終的にある程度の幸福をつかんでいくのが、19世紀小説だし、ハウス食品が協賛していた日曜日19:30からやっていた世界名作劇場の要諦だろう。そして、私はそういうのが好きで、ディケンズのこの作品も、そういった趣を持っていることをすでにして知っていた。

なんとも、感激のない読書であろうか。否、すでに知っている筋を反復することが、読書の妙味でもあろう。自問自答を経て、いつもの調子へと戻りたい。

すみません。

ストーリーを細切れにして、感想を記すと、あらかじめ知っている情報から、感想が形成されないように苦心するので、こんな妙な語りになってしまうのであります。

子どもたちが、いずれこの文章を読むか読まないかは知らないが、親父はいったい何を書き出すことにそれほどまでに右往左往しなければならなかったのか、ということを理解してほしいのだ。

書き出しとは、どんな状況においても、先行する諸形式と、後続さる諸形式の間に、くさびを打つ行為であり、どこにどんなくさびを打つかで、以後の内容が限定されていく行為なのである。

先行する意見と同じくさびを打ってしまうと、おそらくそれは、ただの剽窃や模倣になってしまう。それでは、書いている方にスリルがない。いや、感想にそんなに大げさな、と思うかもしれないが、少なくともこの時点で、19世紀小説の主モチーフが、21世紀の日本の社会現象と似通っているよね、と書き出すこと自体には、自棄が必要なのだ。

というのも、(時代的・文化的・地域的)差異を含んだ現実を、同一の解釈枠に収めてしまうことで、その時代の特性が見えなくなってしまうことを恐れているから。とはいっても、一方で、普遍性がないとなると、それを読む意味が失われてしまう。固有すぎるものからは、応用できる真理が取り出せないからである。

応用可能にするには、固有であるはずのものを一般化することも必要だ。

いやいや、作品の内容となんの関係もないやんけ、と言われそうだが、読んだ後、一拍おいて、こういうことを考えた、というだけの話である。

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