辻井喬『いつもと同じ春』

「辻井喬」という名前は、元セゾングループ会長の堤清二のペンネームである。大企業を率いるトップでありつつ、詩人や小説家としての顔を持つ存在としては、最も有名な部類に入るのではなかろうか。先年、物故された際に参照した本の中で、非常に味わい深かった小説が、この『いつもと同じ春』であった。

ちなみに、私の手元にある文庫本は中公文庫で、これはレビューのバナーの選択肢には出てこないが、版としては最も新しく2009年に刊行されたものである。

辻井喬の多くの小説は、変名を用いてはいるが、自伝的小説と言える。父親である堤康次郎、異母弟である堤義明、実の妹である堤邦子など、現実の関係を理解していると、すんなりと小説世界の中に入りこめるが、知っていなくても、志賀直哉のようなモチーフとして相似的にイメージしておくと入りやすいだろう。

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この小説は実妹の堤邦子との関係に焦点があてられている。堤邦子は、いわば日本のセレブリティの先駆けである。長らくパリに滞在し、日本のファッションジャーナリズムやアパレル関係者が、パリの現地と接触したいときに、仲介の労をとったりしていた実績がある。例えば、日本のファッションカルチャー誌の『装苑』が、1950年代後半にパリコレ取材などに参加する際、フォトグラファーの高田美(たかだ・よし)等とともに、パリ特派員として活躍していた。実際、『装苑』がパリ支局というブランチを作った際には、設立に深く関わってくれた人物でもある。

閑話休題。

最初、経営者の小説など暇つぶしの手慰みにすぎないのではないか、という偏見を持っていた。だから、史料としてのみ自分には必要で、よしんば感動などするはずもないと多寡を括っていた。しかし、小説の中に登場する堤清二的存在は、人間関係や金銭の貸借、周囲の評判など様々な「しがらみ」に囚われた不自由な男にすぎなかった。

大金は、常に信用によって人に帰属するだけである。堤清二的存在は、これらの大金を生産しうる可能性を信用によって持ち得るからこそ、大金が帰属するのである。帰属した大金を右から左に動かせるから、さらなる信用が生み出される。この帰属の源は、立場への信用である。信用は、人を立場へと束縛する。束縛された人間は、それらの信用を生み出すためにしか、行動できない。要するに、不自由なのだ。

辻井は、この不自由の中に敢えて入っていった。人間関係や多くの社員という「しがらみ」を敢えて背負うことにした人物である。ここまで、他人の責任を背負いつつ書いた人物を私は知らない。しかも、他人の責任を背負いつつ、自分のスキャンダルめいた内容や迷い多き内面を書き続けた。

それにしても、自分の弱みにつながってしまいそうなことを、わざわざ自分で暴露してみせるとはどういうことだろう。弱みを他人に読まれ、握られるということは、信用を持つ個人や企業の評判を揺るがしかねない。にも関わらず、辻井は、それらの出来事を書き続けた。なぜだろう?

それ以来、時々彼は私の視野に現れて疾走を続けるのである。走っている男と、腰を下ろして会議に参加している自分とが同一人物に見えてきて混乱したりする。別々の行動をする二人の人間が、方向を失って同居してしまうのだ。

辻井は、しがらみの中に入り、しがらみを見つめ、しがらみを劇化しようとした人間である。経営者であれば、人を押しのけたこともあろうし、間接的に人を死においやったこともあるかもしれない。それら行為の一つ一つの責任を追うのが経営者だろう。もちろん、鈍感な人物なら、それらの瑕瑾を自己合理化して、都合良く処理してしまうに違いない。けれども、辻井は、敏感に自覚していた人間である。その自覚に押しつぶされないために、辻井という良心を代表する存在を必要としたのだ。

辻井は、堤清二の良心として、堤清二の行為を冷徹に記録し、あますところなく筆写しようとした。もちろん、目を覆いたくなることもあったに違いない。例えば、妻との離婚にいたる愛憎劇を書き記す際の描写である。

横坐りに向かい合って坐った妻が数年間に驚くほど老けたのを知って私は驚いた。かつて強い眼の輝きに特徴のあった女を、このように疲れさせたのは自分だと、私は責められているような気分に陥った。二人でこの店に来た頃のことを思い出したのであろう。妻の笑い顔がべそをかいたようになった。彼女は出された菠薐草の御浸しを何度もピチャピチャと汁に漬けてゆっくり喰べた。

壊れそうになる関係に留まる時に必要なことは、物事をよく眺め、意識を明晰に保つことである。怒ったり、感情に流されたりしてはいけない。そのような場面は、事実、市井の人間にも、堤清二にも平等に襲いかかる。確かに、感情のままに壊しても金で無かった事にできるのは、特権かもしれない。けれども、堤清二の場合、辻井が、その有様を書き記すことによって、何とかバランスを保っていたのだと言える。辻井は、清二の崩壊を食い止める良心としての存在を代表していたのである。

辻井喬の作品は、分身である堤清二という存在が「しがらみ」の中でもがくような内容を書き続けた。水中で空気を求めてもがく人のような息苦しさを感じるのだ。このような息苦しさと引き換えに、金持ちであることができるなら、私は、大金などいらないと断言できる。少しは欲しいけど。

そんな堤清二が唯一自由になれる存在こそが辻井喬という人格だった。辻井という人格に自己を仮託し、自己のしがらみを観察して、記録していた時だけではなかろうか。書くことは、堤清二にとって、自由な場を創出しうる唯一の機会だったのだろう。辻井が、物語を完結するとき、私は、堤清二の安堵を思い、思わず嘆息してしまう。

記録し、描写することによってのみ自由になれた男の肖像は、切なさなしでは眺められない。

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