映画『寝ても覚めても』私感

映画『寝ても覚めても』について、昔書いた文章をもとに感想を書き記しておこうと思います。

揺れる瞳

多くの方が書いておられるように、『寝ても覚めても』は不穏なイメージから始まります。

写真家・牛膓茂雄の作品展の中で、おそらくは双子を映した写真をじっと眺める朝子の姿は、その青白いトーンの映像とともに、そこはかとない怖さを感じさせます。

さらに、その写真をみつめる朝子の瞳が微妙に左右に揺れます。この揺れが、また、同じような顔を「照合」している心の揺れを感じさせ、見ている私も不安に襲われます。

また、会社の会議室にコーヒーを取りに来た朝子が、亮平を見て、同じように瞳を左右させるしぐさをしたように見えたが、それもまた、怖かったです。

揺れる瞳は、「2」を暗示させる効果を持っていると思いました。

牛膓茂雄の写真は、そこからダイアン・アーバスの写真も連想させます。

アーバスの場合は、別のモチーフがあるわけですが、ポートレートの表情に、ある深さを見て取ろうとする態度というか、一つに収れんしない楕円のようなイメージというか、いわく表現し難い共通性があることを、朝子の瞳の揺れをみて、理解できました。

いずれにしても、『寝ても覚めても』は、「2」を示す瞳が恐ろしい映画です。人間に瞳は「2」つあるので、その「2」つが揺れる、という点と、じっと見つめる顔、というものが、観客をして戦慄させる映像として迫ってくるといえそうです。

アーバスのイメージは、終盤の岡崎の顔につながります。朝子の顔だけではなく、ドアをあける麦の顔、演じるマヤの顔、寝たまま朝子をみつめる岡崎の顔というように、演じる顔と仮面を脱いだ顔、様々な顔のドラマとして胸に迫ってきました。

水の音

次に、怖さとして迫ってくるのは「水の音」です。

麦が居候している岡崎の家の脇に流れる川の流れる音。これが、麦と朝子の関係の流動性を示すように、耳について離れません。

もちろん、ストーリーを知って観ているので、そうした観方をしてしまったということもありますが、それでも、朝子が東京で働いていたときに傍を流れる墨田川、そして、亮平と大阪で暮らそうと見た家の傍を流れていた川など、常に川の流れが近くにあって、その都度、何かを予告するかのように、耳の奥を刺激してきます。

麦が、「全然、海が見えないんだよ」と言ったとき、二人の紐帯は切れます。麦は、水の男としての資格を失ったのではないでしょうか。

逆に、朝子が被災地へ行き、水のイメージを共有していた亮平を選ぶ、というのは、まだうまく指摘できませんが、水のイメージが二人を必然的に引き寄せたのだと言えるような気がしてなりません。

最後に、川の流れを見ながら、「きったねえ川だなあ」「でもきれい」と述べるくだりは、シェイクスピア(うろ覚えですが、キレイはキタナい、キタナいはキレイ、は福田恒存訳)なのか、それとも夏目漱石の『門』なのかわかりませんが、そうしたイメージにスライドします。

マヤの演じるチェーホフに対して、串橋が述べる演技論の場面のいごこちの悪さや、マヤが3月11日に演じるはずだったイプセンの『野鴨』など、何か、様々な先行作品とのつながりを感じさせます。

私が理解したのは、麦の妹が「米」なので、そうか、『それから』と『門』への意識を、脚本家の方も読み取ったということなのかもしれません。これは映画を観て、初めて腑に落ちた部分でもあります。『それから』が火、ならば、水で鎮めればいい、ということなのかもしれません。

意外に、漱石作品へのアンサーが、いたるところに仕掛けられているようにも思いました。

「2」の怖さ

もう記憶が薄れていますが、『寝ても覚めても』は「2」という数字に憑かれているように感じました。

車の助手席で「高速を降りたの?」と聞く場面(これは、小説『きょうのできごと』の冒頭のオマージュか)や、冒頭の花火で遊んでいる高校生と終わりで遊んでいる小学生の場面など、何かが「2」回反復されることが多く、それを観るにつけ「2」という数字は不安定さを暗示しているように思えました。

水平と奥行き

水平に横に流れるカメラと、奥ゆきを示すカメラの動きの対比もまた、印象的でした。

地震の後、歩道橋を歩く亮平を追っていくカメラ、春代が唐突に現れたとき、春代と会うためにショーウィンドーの向こうを横滑りする朝子を追うカメラ、防波壁に上って海と並行に歩いていく朝子を追うカメラ、元の飼い猫を探す朝子を追うカメラ。

こうした映像は、もしかしたら、ある種のあざとさを感じさせる要素として読まれるのかもしれませんが、それでも、映像と映像の間のアクセントとして、私は楽しむことができました。

一方、奥行きについては、麦が一度パンを買いに出て行って、翌朝帰ってきたところで、朝子と抱き合うシーンで、下から、ベランダの岡崎がぼんやり動いて見えるシーンとか、麦の車に手を振る朝子から遠ざかっていくカメラ、常磐自動車道の道の向こうを予感させるカメラ、会社の非常階段から朝子を観る亮平の目に合わせられたカメラ、お金を借りて返しますからといってツカツカと歩いていく朝子の向こうにぼんやりみえる人を射程におさめたカメラ、など。

こうしたカメラワークが印象的でした。

恋愛について

恋愛劇としては、むしろ小説の方が、朝子の内面がかなり多彩に描かれているために、より不可解に思えました。

映画は、変な言い方ですが、朝子がキチンと目覚めて、麦に向き合い、発言し、その上で、亮平に謝罪し、やってしまったことを踏まえた上で、関わろうとしていて、好感が持てます。

亮平の過去の恋愛のシーンがなかったからといって、亮平が無垢であるわけではありませんし、「帰れ」と言ってはいるが、映画版の朝子に帰る場所などありません。だからこそ、亮平は、猫を渡して、鍵を閉めなかったのだろうと思いました。

人は他者と関わる際、過去に何があったかを理解し、その事柄を自分も一緒に抱えて生きていくしかありません。

安定した現在を更新するために、常に自分や相手の後ろめたさを理解しながら、少しづつ前に進むしかないのだろうと思います。

そういう意味では、亮平もまた、物事は昨日のように今日が続くとは限らない、ことを朝子を通じて理解し、無垢であることの傲慢を自覚したのではないでしょうか。

少なくとも、被災地から家に帰ってきて、服も脱がずに床で寝てしまってはいけないと思います。

ちなみに、原作にあるはずの春代の悪さは引き抜かれていました。

余分なこと

東出昌大、瀬戸康史ともに、よかったと思います。

そして、麦は、やはり、と言っては後出しじゃんけんなのかもしれないが、ああいう一時期の斎藤工的な髪形でいくのね、と思いました。

斎藤工風味の東出昌大は、案外魅力的だと思いました。

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