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【創作】大野修理奇譚 2

借り受けた冊子を見て思ったのは、装丁や製本が明らかに近代のものだということだ。写本を繰り返してきたものを、昭和のある段階で、製本して、所蔵してきたのかもしれない。

文字も、流れていない。どちらかというと、内容がわからないまま、字面だけを書き写そうとして奮闘したように見える。そのため、大変読みにくいのと、変体仮名に明らかな誤字が見られた。誤字は全て統一されていたので、やはり、意味を考えながら書き写したものではなさそうだ。

大野修理、すなわち大野治長の呼称だが、これも表記が疑わしい。写本している途中で、よくわからなくなって、記号としてのみ記されているようにも見える。したがって以下では、治長と表記したい。同様に登場人物には全て現代の呼称を当てる。

正直、私には理解できない文字も多く、全てを読み下せた自信がない。しかし、内容面については前後の流れから、このようにしかならないという解釈をした上で、わかった話を下に記そうと思う。

治長の父は、越前の出身で、かつては由緒正しい家系の末裔だったが、応仁の動乱によって家が傾き、朝倉家、そして浅井家に被官した人物らしい。治房ら弟たちとはどうも血が繋がっておらず、父亡き後、大蔵卿局と一緒におり、大野定長の養子となり、以後治房らが生まれ、長兄として育つことになったという。

治長は見知らぬ父の血か美丈夫だったとされる。茶々(淀殿)とは、母が乳母だったこともあって、乳母子として兄妹のように育てられたという。

治長の初陣は、小谷城落城の戦いだとされる。周囲に響き渡る時の声に怯える茶々に寄り添い、最後まで守ることを誓ったという。茶々も、この血の繋がってない兄に全幅の信頼を置いていたという。

浅井長政は城と運命と共にし、お市と娘たちは助命された。その際、お市の方は、治長に「茶々をよろしく頼む」と依願したという。治長は、それを快く了承し、茶々に危害を加えるものあらば、差し違える気持ちを強くしたという。

どうもこの「奇譚」では、治長の生誕を永禄8年あたりにとっているようだ。ずいぶんと定説よりも早い。

ここに、誰かがのちに書き加えた文言が付け加わっている。その趣旨を見ると、

治長は柔弱だという評価が江戸期になされているが、それは敵を欺くためのもので、彼の表裏なき人柄が知られてしまうと、徳川政権の悪辣さが知られてしまう。だから、彼を悪評のもとにとどめおいたのだ

というものだ。

治長は、お市や茶々らを護送する際に、賊らしきものを何人か斬っている。彼の得意は槍で、かなりの使い手であった。そして、その槍は長く、本多忠勝もかくやと思われる使い手であったという。

治長の剣幕に、それ以降賊が襲ってくることはなかったようだ。お市とその娘たちを無事に確保した秀吉は、大変に喜び、その功を治長に帰した。ここで秀吉は、治長という人間を認知し、才を見抜いたようだ。それだけではなく、この男が持っている茶々への強い愛情もまた、感じ取ったようなのである。

治長も、秀吉の持つ歪んだ愛情が、お市とその娘たちに向かっていることを察した。そのため、秀吉を警戒して、殺気を切らすことはなかったという。その段階で、秀吉はさすがに、元来の歪んだ性癖を引っ込め、治長との一触即発は避け得たという。

お市は、柴田勝家と共に北ノ庄城に入る。治長もそれに付き従って、越前に行った。越前は、よくわからぬ父の出身地。ここで治長は、大人になったそうだ。茶々と治長は、契りを結んだという。

治長は元服後、加賀一向一揆の鎮圧、手取川の戦いに参戦する。手取川では、謙信勢にいいようにやられたが、後退戦の中で治長は奮闘し、使い手のみならず、指揮官としての才能も見出されることになったという。

次に治長が経験したのは北ノ庄城落城戦である。これまた秀吉との対決であり、今度こそ、茶々を助けて、死を選ぶことを決意したという。茶々の側にいたがゆえに、勝家の戦術が手に取るようにわかった。勝家は、無骨なイメージがあるが、本来は無類の優しさを持ち、今まで自分と一緒に戦ってきた前田利家が退却しても、呵呵大笑して、それを許したという。

北ノ庄城は落城、お市と勝家は、城と共に命を落とす。ここでもまた、治長は茶々とともに、2度の落城を経験することになる。

「また、お主か」

秀吉は、うんざりして、治長に言った。治長は黙っていた。もはやこれまで、と思い、秀吉に茶々を託そうとした。

「私の命はどうなってもいいので、何とぞ、茶々様の幸せをお願いしたい」

秀吉は、治長を殺すかどうか悩んだ。なかなかいい面構えをしており、どこか出自が定かならぬ自分の若い頃と重なる部分があった。だから、茶々を引き受けることを了承して、治長については放免した。まだ小僧だ。ここから這い上がってくるのであれば、見どころもあろう。ここで殺してしまうには惜しい。

治長は放された。

出生地、生年、家系、その辺りが私の知る治長とは異なる像が描かれている。

私は、このあとの記述をさらに追っていった。

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