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【創作】大野修理奇譚 4

治長は大阪城に入って、淀殿とともに、豊臣家の存続に尽力した。家康は、治長に任せることで、大坂城対策を処置した。実際、10年の間、不穏なことは起こっていなかった。

治長と淀殿は、二人三脚だった。最終的には、豊臣を徳川政権下の一武将として、存続させる方向で動いた。織田有楽、片桐且元らも、同じ意向だったという。

千姫を秀頼に輿入れする最中、家康は治長に指示している。

「治長、千姫のことも頼むぞ」

治長は承知した。

千姫は治長に全てを聞いたらしい。秀頼が何人かの側室に産ませた子どもがいても、その子らについては優しく接していたという。

その秀頼が側室に産ませて、のちに千姫の養子となって、落城後の大阪から逃れた人物に天秀尼がいる。

こうした不詳の子どもたちが、何人かおり、その中に治長の子どももいたようだ。その母が淀殿であるかは未詳だが、おそらくは淀殿だろうとささやかれていたらしい。

なるほど、この奇譚には後の注釈で、治長と淀殿の間に女子がいたと書かれている。そう考えると、江戸時代に流布した淀殿の不義説も間違いではないことになる。それにしても、男の武将の側室が多くいる中で、淀殿の不義が喧伝されるというのも、興味深いことである。

家康は明らかに、治長と淀殿の関係を密にさせることで、豊臣戦略を確定させる意図があったのかもしれない。

ただ、これは大正7年の福本日南『大坂陣』の内容そのままのようにみえる。「奇譚」といいつつも、様々な文章を混ぜ込んでつくられた物語なのだろう。

先を続けよう。

そうした運営に不満を持ったのが片桐且元であった。

且元は、治長よりももっと強硬な豊臣家への忠誠を抱いていた。淀殿と所帯を持っておれば満足な治長に対して、密かな憤りを感じていたのだ。

方広寺の鐘銘事件がそれである。

国家安康は、家康の文字を引きさいているのではなく、家康の政策、すなわち治長による淀殿の小市民化政策を呪ったものらしい。淀殿が、治長と、幸せになってもらっちゃ困るのだ。重要なのは淀殿の安寧ではなく、秀頼の安寧なのだ。

治長は、この銘について反対していた。後年、それは金銭的な消耗を抑えるためだと言われているが、家康の政策をここまで過不足なく実施してきた治長にとっては、いたずらに家康の気持ちを刺激したくない。そして、秀忠は、そのことをよくわかっていない可能性がある。

且元と大蔵卿局が家康のもとに行き、その真意をたずねた。且元は激怒され、大蔵卿局は懐柔された。いずれにしても、①淀殿が江戸に行くか、②秀頼が江戸に行くか、③国替えに応じるかの選択肢が出された。

家康は、この選択肢によって、治長が①、③のどちらかを選ぶと考えたようだ。今までの、治長と家康の密約の関係を考えれば、それもあながち無理筋とは言えない。

「…おそらく豊臣は権力争いをするだろう。そのとき、上手にたずなをとるのだ。そうすれば懐かしい茶々と一緒にいられるようにしてやる…」

かつての密約を治長は思い出していた。これが最後の説得になろう。

「茶々、一緒に江戸に行かないか。やっと、ゆっくりと二人で過ごすことができるぞ。」
「もう、疲れたわ。そして、最後の最後にやりたいことがあるの。」
「やりたいこととは?」
「私の父、優しかった母、義父、みんなあいつに滅ぼされた。あいつが残したものをすべて壊してやりたいの」
「あいつ…秀吉か。」
「人としての栄華は極めたわ。もう充分。」

この会話は、私の解釈である。正直、この部分はどのような話が行われたのかについて、象徴的に書いてはあるものの、よくわからなかった。メロドラマに過ぎるかもしれない。おおよそ、こんなふうなことなのではないかと推測する。

治長にとっては、豊臣家も秀頼もどうでもいい。茶々との約束を守ることが最優先事項だ。できることをやろう。戦争の準備を始めた。

家康は、すべてを理解した。

「それならば、受けてたとう」

ここからは、一般的な冬の陣、夏の陣の話が記述されている。ところどころに、治長と淀殿の会話らしきものが挟まっているが、どうにも解釈しづらい。

それでも治長は、旧知の真田信繁、後藤基次、木村重成、明石全登、毛利勝永、長曾我部盛親、大野治房を頼み、陣容を整えた。金銭をすべてつかってしまおう。そんなふうに考えていたのかもしれない。

冬の陣、大阪城の堅さも相まって、耐えた。

家康は、じれてきた。

織田有楽を通じて、治長に休戦を申し入れた。

治長は、休戦に応じるつもりだった。

しかし、弟であるはずの治房が、強硬に反対した。

「兄者、それは家康の策にとらわれることになるぞ」

「それはそれでいいではないか。」

「それでいいとは何だ。そもそも兄者は、我らと血がつながっていない。淀殿のことしか考えていない。そんな男が指揮をとっていたら、勝てる戦も勝てんわ!」

治房は、大蔵卿局の連れ子に過ぎない治長が疎ましかった。ただ、淀殿に対してのみ忠誠を誓うように見える、この兄が。そして、明石らも、関ヶ原で東軍の先鋒をつとめ、いつしか、大阪方の首領に収まっている治長に対する疑念を強めていた。

講話後、治長は、襲撃され、手傷を負った。下手人は、治房の家臣であるということだ。

治長は、それもいたしかたなし、と思った。

次男を江戸に人質に出して、秀頼と淀殿を大阪城に留め置いた。

このあたりの記述については、講談などの記述とそう変わりはない。何が、他言無用の「奇譚」なのだろうか。

いぶかしく思いつつ、最後の章にかかった。


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