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本の廃棄を検討する 17

なんやかんやとストレージルームに新書はダンボールにつめて保管されることになる。敢えて言えば、廃棄と保管だけではなく、本棚にアクティブに残るような本もせめて選別したい。

今までは、廃棄と保管だけだったが、ここに「本棚へ戻す」が加わることとになった。

P・B・シアーズ『エコロジー入門』(講談社現代新書 1972)

古い本だし廃棄かな?と思ったけれども、キチンと中身を読んでみると、現在のサステナブル思想の日本受容の重要な一側面を示すもので、ここにマルサスの『人口論』(1798)やジョージ・マーシュの『人と自然』(1864 邦訳はない)が流れ込んで、一つの自然環境保全思想の歴史が組みあがっていることを今更認識して、「本棚」へと戻すことにした。

エシカルだなんだと騒ぐ前に、こうした過去の名著を熟読すべきではないか、と言うと、オッサンの繰り言と言われるのが関の山である。なので、そんなことは言わない。オシャレなエコで地球を救ってほしい。

北岡伸一『清沢洌 日米関係への洞察』(中公新書 1987)

大学の授業の中で清沢洌の『暗黒日記』を「読んだ」のだけれども、この「読む」はなかなか難しい問題を秘めていた。

清沢洌(きよさわきよし)という人のことをあんまりよくわかってなくて、名前が読めない!という気持ちが沸き起こったことだけを覚えている。

いわゆる高校の歴史の教科書には出てこない人なので、もっと有名な人の書いたものを読むなら読みたいなあ、なんて思っていたけれど、要するに《不服従な自由主義者》(戦時下の吉田茂とか福田恒存とかそうかな?)の書き記した日記で、左翼的抵抗とも右翼的狂信者とも異なる発言を読み取っていこうという趣旨だった。

そんな人の伝記なので、もしかしたらいつか読むかもしれない。保管で。

庄司克宏『欧州連合 統治の論理とゆくえ』(岩波新書 2007)

なんだろう。EUに関心を示すことが何度かあって、近々ではプレグジットの時だったと思う。でも、この本は2007年に買っているから、それがきっかけじゃなかった。いや、新刊で買ったのか、プレグジットの時に、参考資料として買ったのか、忘れちゃったな。

プレグジットの前にも、ギリシャの通貨危機とか、時々EU形成の歴史に触れたくなることがあって、そういう意味では保管でいいと思うけれども、国際関係の箱をつくっておかなければなるまい。

森博嗣『集中力はいらない』(SB新書 2018)

森博嗣本は、ファンだったので途中までは全部勝っていた。おそらく、飽きがきた(すみません)あたりに買った新書だと思う。今までの森博嗣エッセイに触れてきた人なら、ああまたあのあれか、と思う発言が多いものの、森博嗣的発想に初めて触れる人にはいい本じゃないだろうか。文章も多少はあるけどね。

信仰に近い言論をあっさりと否定し去り、合理的に考えるとこうだよね、と教えてくれる本。だんだん鼻についてくるけど、オジサンになるとそうでもない。若い時はハマるかウゼーかどちらかだろう。著者近影はスネオヘアーと区別がつかない。

Q『日常生活の中で、自分の思考を深めるトレーニングはされていますか?読書がそれに当たるのでしょうか?』
森『読書は知識を得るうえで非常に効率が良く、毎日読んだ方が良いでしょう。僕は小説は読みませんが、読書量は歳を取るほど増えてきました。若いときには文字を読むのが苦手でしたが、だんだん慣れてきたみたいです。
ただ、思考を深めるために「読書」とおっしゃいましたが、読書はそもそも思考力には関係ありません。読んでも読まなくても同じです。もちろん、知識を得るには多少有利でしょう。これは、野球の本を読めば、少し野球が上手くなる、くらいの意味です。
ようするに、読書はインプットですが、思考はアウトプットなのです。したがって、野球が上手くなるにも、ピアノが弾けるようになるにも、その練習をするしかありません。知識が足りなくて、野球やピアノができないのではない、ということです。同じように、思考ができるようになるには、思考するしかないのです。』

pp.82-83

保管。森博嗣ボックスをつくる。

山岸哲『マダガスカル自然紀行 進化の実験室』(中公新書 1991)

時々、動物についての知見を得たくなって、こういう本をリサイクルで拾ってきたりする。近々では、例のゴリラの山際さんの本とか。それは新刊で買ったけど。最初の方に出てくる、山岸一行を出迎えてくれるマダガスカルの博士がイケメンである。イケメンなので、わざわざ写真を掲載したのだろう。山岸さん、ニクイ。

こういう博物誌というか観察日記というか紀行文というかは、小説を書くときの描写の先達として私は読んでいる。内容や研究成果にそれほど興味があるわけではなく、未知のものをどのように描写するのかが面白くてみているのかもしれない。

保管。

原寿雄『ジャーナリズムの可能性』(岩波新書 2009)

これブックオフ入手本だな。挟まっていたチラシの『行人』の三行紹介がヤバイ。そういう本じゃない(笑)。ただ、これはこれで面白そう。

でもなんで買ったんだろう。たぶん、この時期、ジャーナリズム論にハマったのかな。もうすでに編集部をやめて、今の会社に入ったところだったから、懐かし本くらいの気持ちで買ったのかなあ。

保管。

赤木洋一『平凡パンチ1964』(平凡社新書 2004)

そういう意味では、団塊世代の青春は団塊ジュニアの私からするとちょっとした歴史で、『平凡パンチ』も、そういった文化がかつてあったくらいの認識だ。今の若者が『JJ』がつくった文化があったのだなあ、と追想するような感じだろうか。

雑誌文化も歴史的な終焉を迎えつつある昨今、もっと雑誌文化の歴史について知りたいという気持ちが高まっている。雑誌という言葉は不思議な言葉で、そもそもは情報の入れ物の形態を示す言葉のはずなんだけど、物質的形態における「雑誌」の誕生、と、「雑誌」というメディアカテゴリーの誕生と、新聞や書籍と内容面の差異における独自性の誕生と、雑誌製作者の自意識における雑誌の誕生と、商品カテゴリーとしての「雑誌」の誕生と、5つくらいの「誕生」が区別できるような気がした。雑誌の「誕生」を言うのは難しいなあ。

思い出話ではあるけれども、まあ、参考になる本の一つである。本棚に戻そう。

今回、ちょっと長くなっちゃったな。



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