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【創作】大野修理奇譚 3

浪人となった治長は、つてをたどって織田信雄の配下となった。するとすぐに、小牧長久手の戦いが起こった。茶々のことがあり、秀吉を倒せるなら、自分の手で倒して、茶々を手に入れようと思った。しかし、信雄には戦意がなく、膠着状態のまま、講和してしまった。

この時期、治房と母の大蔵卿局は、茶々とともにある。父のわからない治長だけが、煮え湯を飲まされているように感じていた。信雄のもとを離れた治長は、家康のもとに身を寄せる。あくまで、豊臣打倒の意志を捨てていない。

治長は、家康から、一つ秘策を授けられた。

「お主と茶々が懇意なのは知っている。いずれ時がきたら、お主を茶々のもとに派遣するから、そのときは役に立ってほしい」ということだったらしい。

しかし、時は来ず、家康は秀吉に臣従し、茶々は秀吉の側室となって「淀殿」と呼ばれるようになった。

治長はあきらめとも憤慨ともつかぬ気持になって、豊臣政権に対する批判を強めていったが、なんの権力ももたぬ自分が何をすることもできないと、すべてを諦めていた。

朝鮮出兵が始まった。家康の代理として、治長は、名護屋城の裏手に独立した陣を張った。そこで、久々に秀吉と出会うことになる。

「おお、あの時の若者か。茶々、いや淀君は幸せにしているぞ、どうだ、徳川を離れて、大坂城に来ないか。」

そういう趣旨のことを、治長に述べたという。治長はすぐに家康に注進した。家康は、それもまた面白いと、治長に言い含めた。

「お主に秘策を与える。もうすぐ秀吉は亡くなるだろうが、その際に、おそらく豊臣は権力争いをするだろう。そのとき、上手にたずなをとるのだ。そうすれば懐かしい茶々と一緒にいられるようにしてやる」

治長は、家康の真意をはかりかねた。そううまく事がはこぶのだろうか。いぶかしみつつ、茶々への想いにあふれた。なにせ、二度の落城をともにしてきた茶々である。そして、北ノ庄城の落城後は、秀吉の追ってを避けながら、短い時間ながら、幸せな時間を過ごした。それを思い出したからである。

家康によって、治長は豊臣のもとへ走った。そして、秀吉は死んだ。淀殿は、久しぶりにあった治長に涙し、そして、その乳母である大蔵卿局を重用した。

急に現れた男に対して疑念を持ったのが、石田三成、長束正家、増田長盛らの奉行衆である。徳川による大蔵卿局と治長を通じた淀殿の操作を、敏感に察した奉行衆は、大蔵卿局と治長を大坂城内から追放した。

そして、家康に対し、暗殺の嫌疑があることを伝えたのである。家康は、企てが失敗したことを悟り、治長を再度引き受け、結城家への預かりとした。

「治長、なかなかうまくいかないものだな」

「大阪城は、一枚岩ではありません。主戦派をおびき出して、大阪城の旧守派と分断すれば、すべてうまくいくことでしょう。」

治長は、関ヶ原の戦いが始まると、福島隊の先鋒に属した。そこで、宇喜多隊の明石全登隊と死闘を繰り広げた。石田三成の姿を探したが、見つけられず、福島隊に帯同して、大坂城接収の際の淀殿説得工作に一枚かみ、見事無血開城に成功したという。

治長は、ふたたび淀殿と過ごすことになったという。家康の命を受けて、二度と反乱を起こさせぬように、見張ることを条件に淀殿との暮らしを約束させたという。

しかし、これのどこが「奇譚」だというのか。

もちろん史実として残っているものとは異なる脚色が行われているようにも思える。

脚色部分は、明らかに、後代に付加されたものだ。それにしても、誰が写本の過程で、新たなエピソードを付け加えたのだろう。そのエピソードは、さらなる写本作業の中で、シームレスに繋げられて、一つの物語として成立してしまっている。

私は先を急いだ。

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