チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・ツイスト』10
昨日、アメリカの著名な記録文学者の一人であるジェイコブ・リースの『向こう半分の人々の暮らし』という本をまたパラパラとめくって、オリヴァー・ツイストをさらに読み進めようと思った。
今までの私と違って、あらすじを書きながら記憶しているので、前から戻って読みながら想起する必要はない。それは、このnoteでやってきたところのメリットである。
長編は全てを読み終われないまま中断して、忘れ、また初めから読むという不毛なサイクルに囚われてきた。囚われていたのはもちろん私だけなのかもしれないが、想起のプロセスが省かれていくだけでも、楽なものだ。どんな読み飛ばしをしているのかと叱られそうだが、長編なんてそんなものだろう。
『レ・ミゼラブル』も『赤と黒』も『嵐が丘』もそうだが、読めば確かに名作であることがわかる。特に『嵐が丘』は、私の予想に反して、2回も読み返してしまうほど面白かった。ディケンズの長編も、すでに知ってるあらすじからすると面白いはずだ。しかし、読み飛ばしと想起の手間が、きっと愉しかろう読書を妨げていた。
正直なところ、読書感想と言いながら、大した感想が書けていないのが現状である。自分も読んでみたいと思わせるエッセイを、生涯に二、三個は書いてみたいものだ。今のnoteはただのペースメーカーであり、通勤時間の手慰みである。
あらすじ(16~17)
16
ならず者サイクスとナンシーはオリヴァ―をみつけて拉致した。サイクスは、オリヴァーを脅し、ねぐらへと連れていく。
ねぐらに戻ると、ベイツやドジャーがはやし立てる。新調した服も取り上げられ、折檻されそうになる。
しかし、なぜかナンシーが間に入り、ならず者サイクスが折檻を加えようとするのを遮る。オリヴァーは、それでも本だけは返してほしいと頼み込むが、もちろんスリの一団は聞く耳もたない。
ナンシーだけが、オリヴァーをかばう。いつもの演技ではなく、真剣にオリヴァーをかばうのだ。それが計算からなのか愛情からなのかは判別がつかない。
ナンシーの剣幕におされて、サイクスもフェイギンも矛を収める。オリヴァーを責めるのはとりやめになり、新調された服だけを奪って、寝かした。
17
舞台は変わり、例の教区吏バンブル氏に焦点があたる。
バンブル氏は、オリヴァーにつらく当たった役人の一人である。
そのバンブル氏はロンドンに旅立つ。
なぜなら、ブラウンロー氏が失踪したオリヴァーについて知りたがっている新聞広告を見かけたからだ。これは行って、真実を伝えなくてはならぬ、とバンブル氏は考えたのである。
バンブル氏は途中子どもたちの顔をみる。そこで、例のディック、オリヴァーが就職先を逃げ出したときに、途中で会った同窓生であるが、ディックの嘆願を聞くが、バンブル氏はそれを一蹴する。
バンブル氏は、この訴えを無視し、「こいつをどこかにやってくれ!」と言い放つ。
そして、ブラウンロー氏の家に伺い、そこで、オリヴァーの素行が悪く、自分たちも手をやいていたこと、そして、奉公に出た家の子どもに暴言を吐いて、夜の街に飛び出していったこと、を説明した。
ブラウンロー氏は、そのバンブル氏の解釈を信じた。そして、オリヴァーは詐欺師だと断言した。それに対して、看病をしていた老婦人だけが異論を唱えた。
そして、ブラウンロー氏は沈黙した。
感想
スリの一味に連れて行かれたオリヴァー。不可抗力なのに、何もかもオリヴァーがやったことにされる。こういうことは結構、会社でもあることだ。
管理職は、そういうところを公平にみておかなければならないのに、案外と節穴の目の人もいる。節穴管理職を横から監視している人も必要になる。その監視人も節穴である場合もある。そうして社会の底は抜ける。
分別のありそうなブラウンロー氏にしても、醜悪なバンブル氏にしても、オリヴァーの内面は見えないし、心の清らかさはみえない。起こった出来事だけから判断すると、バンブル氏のような解釈もなり立ってしまうところが世の中の怖いところだ、とディケンズは言っているかのよう。
誤解だよ。そう言っても通用しない先入観の固着。様々な子供を見てきてバンブル氏が持ってしまった偏見は、確かにそのような子供も多くいたことで、補強されたものだろう。10人中9人がバンブル氏の観察のごとくだったとして、10人目がそうでない保証はどこにもない。やはり10人目も9人目までのように、やらかすだろうと推測することは、バンブル氏だけではないと言えるだろう。
『オリヴァー・ツイスト』はお話で、私たちに事あるごとに心のやさしさをこっそり見せてくれているから、オリヴァーを読者は信じていられる。しかし、バンブル氏やブラウンロー氏と一緒にいるグリムウィグ氏の視点に立てば、そうは見えない。不良が、子猫を愛でているのは、心のやさしさなどではなくて、たまたまだと考える。実際飼い始めたら、絶対面倒を見なくなる、という先入観を持ってしまうおそれがある。
バンブル氏やグリムウィグ氏は憎まれ役に設定されており、私たちも心置きなく憎むことができる。しかし、バンブル氏にならないと、誰が断言できるだろうか。私は、すでにバンブル氏なのではないか、という恐れを抱いている。
相変わらず、前半は、ハラハラさせやがんな。
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