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匿名に内在するロマンス

こんばんは。昼夜逆転を完全に自分のものにすることができました。
最近の不安定な天気は私の内面世界をそっくりそのまま映しているのではないかという考えがつい浮かんでしまいました。


迷える子羊をいざなうブログ


それはさておき、今日発見した私の悩みは、この時間になると集中力が保てなくなることです。深夜に外ですることはないので必然的に自己内省に励むかSNSやYouTubeでブルーライトを浴びながら時間を浪費するとか、あるいは昼間は部屋の隅に眠っている本を起こしてあげ不純な懐かしさとともに彼らの世界に身を投げることになるでしょう。もちろん、感覚的には読書がこの中で最も健全な選択肢でしょう。(寝るのがいちばん健全とは言ってはいけません!)



しかし、本の世界に没入できないことが多々あるのです。うーん、、、縦にお行儀よく整列する美しきわが母国語に目を通しても、目線が文字の上を滑って何言ってるか理解するのが難しかったりします。そういう本ばかり集めてしまった自分が100悪いんですけど。


さて困った。しかし軟弱な精神の中にきらり一筋、寝たくないという不毛な意地がこの夜に顔をのぞかせる。学びたい欲を満たしたい!その手は本を宙に放り、硬い板を選んだ。目に降り注ぐ暴力的な可視光線に悶えながら、しかし指は慣れた手つきで活字を操る。


Noteやブログで他者の知識を得ることにした。例えば、英文法や英単語の語源、はては明日には忘れているであろう哲学的なトピックなどなど。


たしかに多くは一般人の書いた文章だ。著名な作家などの書いた本のほうが信頼性の高い事項を学べる可能性が高いだろう。


しかし、この行為は独特の楽しさを持っている。断言してしまおう。


読書とブログ閲覧は似て非なるもの

私は他者のブログなどをめぐるとき、情報をどん欲に摂取してやろうという気持ちで、学びを目的としている。それは読書においても同じことがいえる。

しかし、この二つはやはりちがうのだ。


ブログの匿名性

ブログというのは本と違って敷居がそこまで高いものではない。現に私はこのような思いつきに頼って無責任に思考の断片をネットに垂れ流している。

すると、必然的に利用者の母数が大きくなる。目まぐるしく情報が流れていく。そのなかでの個人の存在感は感覚的にとても小さく思える。

たとえば、書籍には著者がいて、表紙の一部分(名前は知らない)にビジュアルや経歴がのっていたり、類書やその人の立場が簡単にわかるようになっていることが多い。

一方でブログは、文章の書き方や構成などで、個性がはっきりしていることが多いが、その書き手がどういう経歴でどういう見た目かなど気にならないものだ。いかんせん母数が多いし、その人が誰であるかよりもその人が何を言っているかという事実のほうがはるかに重要だといえる。おのずとその人の経験や知識そして思想がその人のアイコンになるのだ。

したがって、その人の経験や知識を知り、その人の思想を理解することで間接的にその人を一定程度理解したことになる。

同じ時代に生きているという連帯感

古い名著は素晴らしい。時代に左右されない普遍的な知識(たとえば数学や物理化学)や価値観は人類の財産だし重視されてしかるべきだと思う。

一方で、インターネットブログという文化は人類史という無駄に壮大な視点から見てみれば圧倒的に新しい。したがってユーザーの多くは私と同じ時代を生きており、同程度の教育を受け、互いに世界的な出来事をリアルタイムで目撃しているのだ。

そのため、たとえ自分のと対立する性格や価値観、思想であったとしても理解しやすく親近感を持てるものが多いのだ。より身近な存在というのは孤独感をいくらかやわらげてくれる。


つながることで生まれるもの

これはとてもロマンティックだと思う。このインターネットの発達した世の中で個々人の所属する共同体の属性の必要性はもはや薄れ、個々の内面に秘められた価値観を知識や経験という情報にパッケージし、広く同じ時代、同じ時間を共有している人々にこれらを共有することでつながりを生んでいる。

ある特定の知識を求めるという目的が一致する中で、知らず知らずのうちにブログの書き手に親近感を覚え、仲間意識が生まれるのだ。こういったつながりを実感するのはとても大事だと思う。

どんな知識でも個人が独占しては意味がない。他者と共有して他者と影響を与え合うことによってはじめて知識や経験は価値を持つと思う。誰だって人の役に立って嫌な思いをしないはずだ。他者の役に立ってはじめて自分の価値や存在意義を認識できるのだ。

互いに価値や存在意義を認め合って自由の中でつながりあう。こんな胸の躍るよろこびがほかにあるだろうか。(ほかにもあるとは思う)

しかし人とつながりあうことがなぜこんなにも満たされる心地よい感情を生むのか、考えてみたがよくわからない。とても不思議で仕方がない。なるべく論理っぽい体裁を整えて誰かに伝わりやすいように考えようと意気込んではいるのだが肝心なところで直観に頼った結論感がぬぐえないのはこれはこれで悔しい気もする。またいつかこのよろこびとやらを言語化して伝わるようにしてみたい。また目標が一つ増えた。


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