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何年たっても古びない映画。「もののけ姫」を語ります。

私がジブリの映画「もののけ姫」を観たのは確か小学生のときだったと思う。映画館でみたのか、テレビでみたのかは忘れてしまった。親から観るように言われて、終わったあと感想を求められて、「最後自然が戻ってよかった」みたいなことを言った記憶がある。

でも、そんな単純な話じゃない、と子供心に思っていた。うまく言語化できなかったけれど、自然を壊す悪い人間のせいですべてがめちゃくちゃになって、でも最後はみんな仲良し、平和になりました、ではないと感じていた。そうではないからなんなのか、は分からなかったけれど、それがなんだか好きだった。ほかのジブリ映画をみて、絵もきれいだしおもしろかったけれど、私のなかで「もののけ姫」は別格だった。ビデオ(当時)も買ったし、金曜ロードショーも録画してあるのに、テレビでやるときは必ず観た。

大人になってからも何度も観て、やっぱり「もののけ姫」のすごさを言語化はできていない。でも、自分が思うポイントをいくつか考えてみた。

まず、絵がきれいということ。これは大前提だと思う。どんなに名作でも、絵が古いとちょっと入り込めない。古典として観ることはできても、心から楽しむことはできない。
いい例えか分からないけれども、私は手塚治虫の「火の鳥」や「ブラックジャック」を読んだことがある。つまらない、とは全く思わない。この短さで、すごい密度だな、と思うし、難しいテーマだな、よくこんな話思いつくな、と思う。でも、じゃあ次の話が待ち遠しくて、夢中になって読むかというと正直ちょっと違うのだ。
「もののけ姫」は、そうではない。どっぷりと世界に入り込める。

次に、音楽がいい。時代劇でもファンタジーでもない、「もののけ姫」の世界をすごく表現していると思う。洞窟のシーンの米良美一の美声は、理屈でなく心を震わせるものがある。

あと、もちろんキャラクターが魅力的。アシタカは優しさと勇気を兼ね備えていてかっこいい。女性キャラクターも、ヒーローの助けをただ待つような人はいなくて、自分をしっかり持っている。

そして、やっぱり単純な「人間と自然の戦い」「自然を壊す悪い人と、自然と守るいい人の対比」ではないからだろう。
アシタカはヒーローだけれども、村を守るためにタタリガミに矢をむける。人助けもするが、「戦いは絶対にだめ」というわけではなく、割とあっさり人を攻撃する場面もある。自然と人間が戦う以外の道はないのか、と考えているが、自然を壊すたたら場の人々と仲がよく、ただ人間が我慢して自然を守ろう、と考えているわけではない。
エボシは、自然を壊す立場だけれど、悪人かというとそうではない。差別されてきた病人や女性のことを思い、ただ守るのではなく自立できるよう道具を整えたりしている。「森に光が入り、山犬どもが静まれば、ここは豊かな国になる。もののけ姫も人間に戻ろう」というセリフからは、自然を敵対視しているようには思えない。森を滅ぼそうとしているのではなく、うまく(それはあくまで、エボシにとってということなのだろうが)共存していくことを目指しているようにみえる。
モロは、エボシと敵対し自然を守る立場だ。「私はあの女を待っている。あの女の頭をかみ砕く瞬間を夢見ながら」と憎しみを露わにするシーンもある。しかし、アシタカに「サンをどうする気だ、あの子も道連れにするつもりか」と問われ、「サンはわが一族の娘だ。森と生き、森が滅びればともに滅びる」と答えるけれど、サンには「お前はあの若者と生きる道もあるのだが…」と、人間として生きる提案をする。また、森の生き物たちはみんな味方かと言うとそうではないようで、「お前には聞こえまい、イノシシどもに食い荒らされる森の悲鳴が…」というセリフがある。イノシシはモロたちとともにエボシと戦うために来たのだが、心から歓迎しているわけではないようだ。
シシガミも、少し不気味なキャラクターだ。愛や優しさにあふれた神、では決してない。作中でも「命を与えもし、奪いもする」と言及されている。歩くたびに草が生え、枯れる。アシタカの頭の榊を枯れさせるが、アシタカの銃撃の傷を治す。そのときはタタリガミの呪いは治さないが、最後、首を取り戻したあとは呪いを治してくれる。

誰も、絶対的な善、絶対的な悪ではない。
そして、正解の道、正しい未来もわからない。モロ達は、今までのような大型の生き物たちが住まうシシガミの森が続くのがいいと思っているようだ。
けれども、オッコトヌシが「わしの一族をみろ、みんな小さく馬鹿になりつつある」と言うように、人間だけのせいで森が衰退しているのではなく、森の生き物じたいも変化しているようだ。そうしたら、人間が木を伐採しなくても、今までのようなシシガミの森ではなくなってくるのではないか?
エボシは、「私は山犬の背に乗って生き延びてしまった」「みんなはじめからやりなおしだ」と言っているが、木の伐採をやめるとも、鉄を作るのをやめるとも言っていない。ほかの侍たちに攻められる可能性もあり、エボシの村の人々を守るためには、やはり森を切って鉄の武器を作るしかないのではないだろうか。でも、それは責められることだろうか?
サンは最後に、「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない」と言う。アシタカは、「それでもいい。ともに生きよう」と答える。
モロに、「お前にサンが救えるか」と問われたときも、アシタカは「わからない。だがともに生きることはできる」と答えていた。モロには「どうやってともに生きるのだ」と嘲笑されてたが、すぐに正解や答えがみつからなくても、あきらめる、そのほうが簡単だから相手を攻撃しやりたいようにやる、ではなく、常に方法を模索し、双方生きる道がないか考えていく、というのがアシタカの生き方なのだろう。

#映画にまつわる思い出

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