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国際女性デーに一緒に人権を考えよう

3月8日は国際女性デー。国際女性デーとは

1904年、ニューヨークで婦人参政権を求めたデモが起源となり、国連によって1975年に3月8日を「国際女性デー(International Women’s Day)」として制定されました。

「国際女性デー」は、すばらしい役割を担ってきた女性たちによってもたらされた勇気と決断を称える日です。

HAPPY WOMAN公式HPより

女性は生まれ持ったその性のため、長い歴史の中で虐げられ、立場を軽視され、学びの機会を奪われたり社会進出の機会を奪われたりしてきた。現在の日本社会においてもまだまだそういった傾向はみられ、女性たち自身ももはや闘う気力なく、その立場に甘んじてひっそりと生きれば十分という人も多いだろう。

長い歴史の中で被差別の立場に置かれることで多くの不利益を被ってきた社会的弱者に対し、一時その権利や立場を回復するためにテコ入れをする必要があることもある。

国内で例を取り上げると障がい者雇用の目標値だったり、女性管理職の登用目標値というのはその例だし、過去さかのぼると「同和対策審議会答申」のようにその解決を国策と定めて具体的な措置を講ずることもある。この国際女性デーの取り組みもそういった趣旨がある。

このように差別によって奪われてきた権利を一旦回復し、平等のラインに乗せるためのムーブメントは、差別する側・パワーのある側つまり社会全体の圧力が作り上げた社会構造、その歴史からの学び、間違いを正すことを目指すもので、こういったことは時に必要である。

人権問題への取組は誰のため?


女性問題のみならず、様々な人権問題は不変の課題であり、古来より人が寄り集まって生活している集団なり社会という特性上必ず起こってくる問題である。

そして視点を変えると、ある時は差別を受ける側の人間であっても、別の立場では差別する側に回ってしまう。

例えば私は自分の性を女性と自覚していて、キャリアの上では男性より不利益を被りやすいと思うことがたくさんある。女性というだけで頼りなく思われたり、させてもらえない仕事もある。地域社会でも女性というだけで食事の準備やお茶出しなど役割は決められて押し付けられている。

しかしまた立場が変わって部落問題となると被差別部落出身ではない私は明らかに弱者の立場に立っていないと言える。連帯して行動することで意思表示をすることはできるが。

これはうっかりするといつでも立場は逆転するし、誰でも差別者にも被差別者にもなりうる、いや、みんなそうだということだ。

だから人権課題への取組は、人のためではないのだ。

差別される側としての権利の擁護を考えると同時に、私たちは「自分はうっかり差別する側となり人を傷つけてしまってはいないか」「そういう言動をしていなかったか」と常に振り返って考えることが必要である。と私は思っている。

そしてそういう両者の側に自分は立っているかもしれないという意識が、人権問題へのアンテナを高く維持してくれる。

人権課題への取組の目的は?

私はこの人権課題に取り組むことは誰しもにとってライフワークだと思っている。正確に言うとライフワークにしておくべきことだ。(人に言われることじゃないけど・・・)

自分自身のウェルビーングを考えた時、このことは自己の生き方に影響を与える常時必須の課題である。

社会は偏見に満ちており、その偏見は権力のある側が作り出している。うっかりそれに染まっていると、自分の権利も他人の権利も、侵害されても、しても気づかない生き方しかできない。

人権課題に取り組むことは、社会の圧力により「自分ではどうにもならない自身の生い立ちや特性のせいで感じる生きづらさ」をなくすこと。社会的圧力に左右されず、自分で自分の人生を思うように切り拓いていける、という自信と自己肯定感を持てること。

そういう一人一人のエンパワーメントが究極の目的だと思っている。

偏見まみれの社会での生きづらさとその変革

子どもは小さなころからそういう圧力や生きづらさの中で成長している。「男の子は・・・女の子は・・・」と言われ、いじめや不登校の当事者になると、わがままだの本人に責任があるだのと言われ、家庭や地域の中で自信を無くしている子も多い。

近頃はジェンダーの問題で苦しむ人も多い。男だか女だかわかんない、ジェンダレスなアンドロジナスはまだまだ市民権を獲得できていない。

日本国内だけでも障がい者・高齢者・外国人・患者・犯罪被害者など様々な人権をめぐる問題は世の中にあふれており、そこには必ず人権侵害に苦しむ人がたくさんいるのだ。

こういう弱者が生きづらい社会は作り替えていくのだ。それが人権課題への取組と直結している。

人権について わたしの宣言

わたしは知らず知らずのうちにも他者を傷つけたり差別の加害者、傍観者側に立つことのないように生きたい。

自分と異質なものを尊重し、互いに認め合って住みよい社会を作っていくのだ。

そして地域社会を誰しもにとって居場所のある豊かな場所に作り替えていきたい。

誰にだって微力でもその力がある。それが人権課題への取組の大前提である。

人権課題に取り組む生き方は人のためではない。自分自身がどう生きるかという生き方の問題であり、社会変革の営みなのだ。

ブログもご覧ください(^^)/~~~


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