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裸の王様

アンデルセンの『裸の王様』は、あまりにも風刺的で面白かった思い出がある。1837年に、この寓話が発表されるや否や、センセーションな評判となった。日本で翻訳されるや、それを劇にして催す劇団も生まれるほど、人気を博した。

さてと、以上を解説しながら私が呟きたいことは何だったけっ、と自問する。

それは、この裸の王様が精神病理学的考察を含んだものではなかったか、との問である。どんなに威張り散らしていたとしても、その深い深層心理に無価値感が染み付いているとしたら、自らを虚飾で塗りたくるしかないのではないか。

そして、それは私たちが王様でないからであっても、無縁ではないということである。

ここで横道したい。現在、取り調べを受けている山上容疑者は一国の元総理を暗殺した。容疑者の母親は、カルトに億近くの金銭を貢いでも、我が子には殆ど投資をしようとしなかった。その為に山上容疑者は教団に対する恨みを抱くことになる。山上容疑者は母が好きだった。好きな母がカルトに搾取されている。その姿を見て深い無力感と自らの無価値感を感じていた、と私は推測する。無価値感が犯行動機の一つではなかったか。無価値感には色々な段階、種類がありそうだが、ここでは、そのことに深入りしない。無価値感、人はこれに囚われると、反社会的行動を起こしやすいことは、犯罪心理学が明らかにしている。


翻って、カルト王様はどうか。過剰な崇拝を求めるために、彼を崇拝するよう取り巻きが褒め称える。恰も、カルト王様の着ているもの金糸銀糸で編まれ、誰もが見たこともないような輝きを呈している、と。実際には裸なのにである。裸とは無価値感であるとともに、恥部なのである。その無価値感と恥部を隠すために、彼は言う。「私が如何に賢くて、如何に詩的であるか、小説で書いてみたい。が、私になり変わって誰か書いてくれる者はいないか」と取り巻きに訊ねるのである。すると、取り巻きの一人は、「私に書かせてください」と手を挙げて言う。

かくしてカルト王様は、詐欺師になっていくのである。無価値感が犯罪に繋がりやすいことは、既に述べた。

山上容疑者の無価値感とカルト王様の無価値感は異なる種類である。が、両者に共通するのは、二人とも愛着コンプレックスを根強く持っていたということである。

この愛着問題に対する考察は、これからの私の宿題である。果たして、この宿題をやり遂げることができるか。自問している。


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