ポケモンに観るリスク管理


はじめに、こういう事は個人差があって、目的によって千差万別であり、
そもそも知識として伝聞するのではなく、自分自身で察するものだ。
なら、何故わざわざここで言う必要があるかと言えば、「露払い」
例えば公私混同のリスクが判らない連中や、言っても理解しない輩。
約束事、暗黙の了解を一方的に破壊しておいて、且つ気が付かないと。
大事になった原因が自分である事すら見えておらず、被害者を責める。
因果の起点に都合のいいターゲットを選んで理解不能の責任転嫁したりと。
えらく堂々と毅然と確信をもって取り返しのつかないバカをやらかす。
本当にどこにでもこんなのばっかりいて辟易とする。
論理と情緒を取り違えているので会話すら成り立たず、バレなきゃOKと。
それなのに受け売りで知恵者ぶり、マウント取る事すらはばからない。
こういうのに憑りつかれたら終わり。
特に語彙力が弱いと領分違いのペテン師に一生搾取される羽目になる。
悪意を持ったバカの綺麗事に付き合わされない為に引用して欲しい。
そんな訳で説明する。
まぁ本来なら語る必要すらないが。

まずポケモンの前身はゲームフリークというサークルだったと。
単なるゲームオタクだろう。
当時はナムコ黄金期で、これを越える熱量を自分は知らない。
この時代にはギャラガ、マッピー、ゼビウスと・・
まるで奇跡のように名作ゲームが顕現し、
特異点の様なこの現象が、今後永久に続くと勘違いしてしまったモノだ。
それから数年後、ナムコというブランドは意味をなさなくなるのだが。

ゲームフリークはこの流れから発生した、ゲーム文化の伝道者だった。
おそらく彼等の活動は、同人誌の前からあった様だ。
一部では有名な「超少女奈夢子」という漫画、
それをサンデー増刊で書いたのが、専属絵師で有名な杉森健氏となる。

当時は例によって「うる星やつら」とかその辺のアニメブームと重なって、
可愛い女の子というのがオタクアイコンとして重視されていた。
美少女を描けるか否かが当時の絵描きのステイタスだったと。
その流れからエロ同人、エロ美少女漫画に派生していくムーブがあった。
ここでリスクが発生する。
この線引きができないと終わるという事に皆気付けばよかったのだ。
同調圧力の群の中にいると熱に浮かされ、誰も忠告に耳を貸さなかった。
エロ同人は彼等の中では価値があるかもしれないが、ブームは終わる。
しかも全体から分離したコミュニティ内だけの価値観でしかない。
つまりとっくにお先真っ暗で、付き合っていたら未来が無い。
絵を武器に世の中に出るには関わるとリスクしか無いのだ。

杉森氏はそのリスクに早々に気付いたのだろう、
彼は雑誌テクノポリスでの連載をしていた筈だが、絵柄を変えて来た。
汎用性があり、色んなジャンルに応用が利く絵柄を試行錯誤していた筈だ。
当然、将来的に一般向け、特に女子供、親に見せても偏見を持たれない絵。
そういう物を模索していた様に見えた。
この時期の彼の絵は、個人的にマッピー絵師に感化された様に見える。
NGの表紙にもなったマッピーの絵は自分も大好きで憧れた覚えがある。
洗練されていて、今観ても古臭くない独自性のある絵柄だ。
こういう普遍性のある、流行と分離した絵じゃないと後々後悔すると。
当時流行ったうる星やつらの絵が気恥ずかしい物に変化したのと逆に、
サンリオのキャラが未だに通用するのはその為だ。
絵柄のバリエーションを試行錯誤した時に同じ事を自分もやった。
もし杉森氏がナムコファンなら自分と同じ憧れがあったかもしれないと。

小説の表紙やウィズの絵で有名な末弥純氏も同人に参加した事があるが、
名前を変え、エロはキッチリ避けている。
将来的なヴィジョンがあるなら当然だし、やりたい事が何なのかという話。
誰だってそれぞれ道が違う。
エロをやったらそれはもう蛇の道は蛇で未来が固定されると。

この辺に明確なルート分岐がある。
仮に杉森氏がエロ漫画を描いていたら、速攻で過去を掘り返され、
一般にピカチュウが受け入れられることは無かった筈だ。
世界規模で大損失が発生したはずだろう。

これを理解できない連中という物がいて、勝手に紐づけられると終わる。
エロ漫画を描いたら今ならソシャゲくらいならいけるだろうが、
表舞台での活躍は出来ない。
鳥山明だろうが宮崎駿だろうがエロ漫画くらい描けるだろうが描かない。
当然、先入観のキズが付くから描く訳が無い。
大衆に向けた一般ブランドが築けなくなり、メジャーには上がれないのだ。
そういう物に気付かないならそもそもヴィジョンが無い人種という事。

杉森氏は彼等と出会わなかったのか、回避したのか知らないが、
こういうのを避けるのもリスク管理だ。
通常ユーザーとクリエイターは同じコミュニティに所属するが、
友達だからと言って仲間にはなれないという事。
相補関係が築けない人間は人の踏破した地雷原を永久についてきて、
成果を横取りしようと永久に執着するし、妨害をする、支配する。
一生の足枷、お荷物にしかならない。
こういうのはもう連鎖的に紐づけられ、余計なのが芋づる式に寄ってくる。
他人であるにも拘らず、色を付けられ分類され、制約を受け、閉じ込められ
自分が発揮できなくなって終わるのだ。

今はネット文化なので、もっと危険だろう。
ただもう今後はAIが取って代わるのかも知らないが。

そういう見え見えのリスク管理の話。

おしまい。

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