言葉というのは全部ウソ


まぁ当たり前なんだけどね。

同じ事を考えてる人も居ると思う。
全ての言語には作為があり、完全にニュアンスと一致してるモノは無いと。
結局は受け手が如何にニュアンス分解をするかでしかない。
それを受ける側によってようやく真実化すると。
意味性が集約しているとはいえ、鼻歌メロディのグラデーションの一部だ。

この辺の取違いをする人がいわゆる「信者」だ。
どの局面においてもそうだという事を忘れるべきじゃない。
当然自分が今書いてる文章も作為塗れであり、誘導だ。
つまり何でもそうだという事。

日本はいつからかテロップ文化に慣れ過ぎてしまい、
文脈を読む能力が削られている、バカになってる。
語彙に引っ張られ、本質が見抜けなくなっていく。
誰かによってアイコン化されないと納得しなくなる。
10のニュアンスの内の1しか見えなくなっている。
本当はその1以外のニュアンスで騙されてるにも拘らず信じてしまう。

例えばオウムの麻原は信者と握手する際、機械で微弱な電気を流したと。
当然インチキだ。
これにより彼の言葉はリアリティが付加され、鵜呑みにする信者が出た。
つまり麻原の言葉っていうのはこの「電流」も込みという事になる。
信者は教義におけるこの見えない「電流」を信じて信仰していたと。
オウムの教義の一部は「電流」なのだ。

また怒鳴ってワケわからん事を言うオッサンがいるなら、
彼は感情という演出によって自分の言葉に信ぴょう性、
あるいは同情、脅迫などを付加している。
こういうのは当然全て演出、作為だ。

だから真に受けるのではなく、作為ごと見抜く習慣を身に付けるべきだと。
先入観のあるワードじゃなくニュアンスをいかに看破するかをしなければ、
皆、コロッと騙されてしまう。
同調圧力に流され、真偽が判らないまま煽動される。
面白くなくても面白いと思い込み、正しくなくても正しいと思い込み、
その後付けで笑いや義憤、感動等の情緒が発生する。
やがて騙された自分を肯定する為に、マインドコントロールされる。
騙されたと思いたくないがゆえに、自分は騙されていないと信じ込むのだ。

また天才芸人である狩野英孝のテクニック、
ちょっとしたミスやイントネーションの面白みは巧みな演出だろうし、
意識的、無意識的に視聴者を喜ばせようという彼の人柄芸だ。
自分をポンコツ、幼稚に見せかける様にしてシンパシーを生み出す。
空気感を演出し、何かが起こりそうな特殊な力場が発生している。
そして面白い偶然が起きると。
神懸かっているようだが、何かのシンクロニシティが起きている気がする。ひょっとしたらこういう物も誰かが裏テクニックの様にして、
言語化してマニュアルにしてあるかもしれない。
一般人に知られているのは常識という名の氷山の一角だと思えばいい。
風水や祈祷、呪いだとか全てはグラデーションで地続きになっている。
科学だってそうだろう。

こういうのを含めて、ある種の言語、共感力と受け取るべきだと思う。
言葉という切り取りだけじゃなく、色んな複合性を伴って、人が繋がる。
何かの力学によって動かされると。
集団ヒステリーやらポルターガイスト、ワケわからんイジメの発生、冤罪。
言語化されない何らかのロジックがあり、
そのニュアンスの切り取った一部しか見えない様になっている。
なので言語の裏には様々な作為、フェイクや隠れた何かが潜んでいる。
言葉によって何かの情緒が掻き立てられるなら、
おそらくそこに秘密のスイッチがある。
そしてクリエイターはまだ定義されていないそれを探し求める役目だ。

そんな感じ。

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