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 花あかりの小径  思い出のコラージュ

 困惑は消えていなかった。
 特別な意味を持ってしまった「幼なじみ」
 深く捉われた思いは自分だけのそれであって、一方的に膨れあがった心を持て余すしかなかった。

「おっ、丁度いい。西山、話があるから中に入れ」
 作業を終えた後ルイと連れ立って昇降口へ向かう途中、通りかかった職員室の前で担任から呼び止められた。
 ルイは、ホラきたという表情を向け
「じゃあ、私先に帰るね」と胸の前で小さく手をふった。

「おい、何ぐずぐずしてんだ。早くはいれ」
 遠ざかるルイを見送るカイを担任が促した。

 聞かれることは解っていた。進路の決定をまだ報告していなかったのだ。
 予想通りの質問を投げかけた後、担任は腕を組み、深々と椅子にもたれてカイの答えを待っていた。

「エー!」
 突然、驚きの声を発すると、弾かれた様に上体を跳ね起こした。
「ちょっと待て。本当なの?」
「はい、本当です」
 カイは従容とした面持ちで答えた。
——美術系に進みたい。しかも先送りの受験で——

 担任は束の間、惚けた様な表情をして黙りこんでしまった。

「本当にそう決めたのか?」
「はい、決めました。」
 何度聞かれても答えは変わらないと告げると、担任は失意をあらわにして「うーん」と唸りながら天井を仰いだ。それから大きくため息をついた後、カイをじっと見つめながら意外な言葉を口にした。

「今年の生徒にはおどろかされるなあ。つい先だっても大沢が受験を取りやめると言ってきた」
 ——まさか——カイは担任の言葉を疑った。
「ルイが、ですか?」
 つい最近まで生物科学の分野を勉強したいと言っていた。それなのに何故………。

「先生、すみません。失礼します!」
 呆気に取られた顔を背に、カイは職員室を飛び出した。
——どうしてなのか、今すぐ確かめたい——
 連絡を取ろうとポケットから取り出した携帯は、よりにもよって電池切れだった。
 ルイが乗るであろうバスの時刻は五時三十分。昇降口の時計は五時二十分を過ぎたばかり。
 ——今なら間に合う——
 カイは駐輪場に走った。自転車に飛び乗り、けたたましくベルを鳴らしてこぎ出すと、前方を塞いで歩いていた部活帰りの下級生が気圧される様に道を開けた。

 薄闇の向こうにバス停が見える。けれど人影はなかった。
 バス停の手前に構える茶問屋の店先は、暖簾をたたみシャッターが降りかけていた。光の帯が少しずつ細って、歩道の暗がりにすいこまれる様に消えていく。

 その光の帯が完全に消え去った瞬間、段差が目に映った。店の手前に細い路地があったのだ。
 ガツンと衝撃が走ったかと思うと、カイの身体は砲台から放たれたロケット弾のように空中を舞い、顔面から歩道に落下していた。

 歩道につっ伏したまま暫く起き上がることができなかった。痛みをこらえ、やっとの思いで立ち上がった目前に中年の女性が立っていた。
「大丈夫?」と気遣いながらカイの鞄を拾い上げ、自転車を引き起こしてくれた。

「すいません、だいじょうぶです」
 カイは朦朧としながら礼を言った。
「ちょっと、大丈夫じゃないわよ、その顔」
 暗がりの中で、女の人は目を凝らして顔を近づけた。
 唇に手を当てると、粘っこい、生ぬるいものが唇を伝い、顎までべっとりと滴っている。
 慌ててのぞきこんだ自転車のサイドミラーの中で、鼻下の薄い皮膚が横一文字にぱっくりと割れていた。そこからトクトクと血が噴き出ている。
 ティッシュで拭ってはみたものの一向に止まる気配がなかった。
 心配そうに佇む女性に携帯が使えないことを伝え、彼女の携帯電話で母に連絡を取ってもらった。

 卒倒しそうな痛みに堪えながら、カイは茶問屋のシャターにもたれた。やっとのことで自転車を支え、母の迎えを待つしかなかった。

 終了時間まぎわの外科に駆け込んで、鼻下の裂けた皮膚を五針も縫った。
 帰路、母は縫合した茶色のナイロン糸がちょび髭の様だと笑う。言い返そうにも麻酔の覚めない腫れあがった唇は思うように動かなかった。
 バックミラーの中で愛車を積み込んだトランクの蓋がバタバタと上下するのを眺めながら、今年はなんと間の悪い年まわりなんだろうと思った。

 帰宅後、洗面所の鏡に映った顔を見て愕然となった。両頬と鼻頭が赤く擦りむけ顔面を狙い撃ちされたボクサーの様だった。その上母が言うところの、ちょび髭ときている。

 ——明日、学校どうしよう。マスクをすれば隠せるかもしれない。けれど放課後、面と向かい合わなければならないルイの前では?絶対無理だ。撹拌された心の中もいまだに波だったままなのだから——

 自分の担当する作業は、ほぼ終わっている。ルイに迷惑をかける訳では無いからと、抜糸までの四日間、学校を休むことにした。

 夕食後、ルイに連絡を入れた。
 ことの成り行きを話すと、
「あと少しだから心配しないで。ところで、怪我は大丈夫? カイ君て、案外ドジなんだね」
 ルイはからかい半分に言って笑った。

「笑うなよ。この不幸は全て、心配をかけたそっちのおかげだぞ。怪我してまで尋ねたかったことに対して、絶対答える義務があるんだからね!」
 文句を並べ立てている様で、実は上機嫌が漂った声に気恥ずかしさを感じながらカイは言葉を続けた。
「教えて。なんで受験取りやめたの?」
「それは………いくつかの理由があって……。でもその話をする前に言っておきたいことがあるの。これは私自身が判断して決断した結果だということ」
 そう前置きしてからルイは語り始めた。

 理由のひとつとして、三人の弟たちにかかる将来的な教育費を考えると、なるべく両親の負担を減らしたい。
 もうひとつは、陶芸家の祖父が営む工房を手伝っていたお姉さんが結婚することになって、遠くに嫁いでしまうという理由で。

 そしてこのふたつめ理由こそが進学を考え直すきっかけになったのだという。
 工房で陶芸を学びながら、姉に代わって七十歳をこえる祖父を支える役目を担いたい——。
 進路を絶たれたわけでもなく、諦めたわけでもなかった。担い手としての自覚がルイを方向づけたのだ。

 でも……。不安がよぎった。
 ——おじいさんの工房って何処?
 ——富士山の麓だよ。
 ——富士山?……じゃあ、そこに移るの?
  ——もちろん、住み込みってとこかな。
  —— …………………。

 カイの質問が途絶えた。
 ルイが…この土地を離れてしまう————。
 父の転勤で突然転校生になったときの、あの言い知れない不安と付合する、もだしがたい喪失感が襲った。
 カイはリビングのガラス戸を開けて庭に降りたち、掃き出しに腰掛けた。素足に、庭ばきのサンダルの、凍みるような冷たさが伝わった。

「カイ君?どうしたの?」
 黙ってしまったこちらを気遣うルイの声が、夜気を震わせて響いた。

「行ってしまうんだ」
 ポツリと呟くと、
「何言ってんの、直ぐそこじゃん。いつだって帰って来れるよ。」
「そうか。会おうと思えばいつでも会える距離……だね」
 そう思っても、やはり受け入れ難い。


 上空に目を転じると、白い月だけが薄雲のなかに在った。
 目の縁に留まったままの涙がにじんで、暗い空から、星の光芒が自分めがけて降り注いでくるような気がした。

 ルイは、二、三日のうちに仕上げておくから、なるべく早く印刷に出そうと言った。印刷屋を営む麻亜さんの知り合いが、背表紙を付けて仕上げてくれると言う話だった。原稿を届けるだけで、印刷もとじ込みもする必要がない。しかも卒業祝いのつもりで無償で作ってくれるという。

 ルイは「下村君は試験直前だから二人で行こう」と言った。
 解ったと答えて電話を切ったものの、混乱した心は一層波立ったままだった。

 *         *         *          *         *          *           *          *         *

 四日後、抜糸した鼻下の傷は綺麗に付いてた。面と向かって会話をする時は手でさりげなく覆い、意識して俯いていれば目立つことはなかつた。

 先方の都合で印刷の依頼を日曜に変更したその帰り、ルイは街道へ抜ける桜並木の路を通ってみないかと言った。
 文字の判読も不可能なほどすすけた看板が立っている角を折れて、七、八メートルほど歩くと細い路地に突き当たった。そこは、国道から美野川の公園を結ぶ抜け裏の路地で、全長、五十メートルにも満たない桜並木になっている。
 すっかり落葉を終えた桜の木は、路の両側から被さるように伸びた裸の枝先を編み、木組みのトンネルになって路を被っている。下方の根本に近い枝の末端は、路の中ほどへと枝垂れていた。

頭上を仰ぐと、粗い編み目の隙間から青い空がのぞいている。立ちどまってぐるりと見上げていると、
「ほら、見て。もう花芽がしっかりついてる」
 ルイは、胸元あたりまで伸びた枝を、白い指の腹でそっとすくい上げて見せた。

 目を近づけると、硬くつぼんだ小さな芽がポツポツと芽吹いている。
「桜の芽?」
「そう、桜の花芽だよ。夏の終わりから秋にかけて芽吹いてくるの」
「そんなに早く?春がくるまでに咲いてしまわない?」
「そうじゃないの。この蕾ね、今は休眠してるんだよ。こうして硬い蕾のままで冬を越すの」
「休眠?」
「そう。冬芽になって春になるまで休眠するの。梅や桃の花もそうなんだよ。」

 カイにとって、ルイの話は新説にも等しかった。草花のように、蕾ができたら、だんだん膨らんで開花するものばかりと思っていたのだから。
 多くの人がそうである様に、浮かれさざめく花の時期が終わればそれが桜の木であることなど忘れ去り、また季節が巡るまで気づこうともしない。
 カイ自身、落葉を終えたあとの、硬い枝に芽吹く小さな花芽を、一度も気に留めることなく見過ごしていたのだ。

「詳しいことは知らないけれど、休眠した桜の花芽は冬の冷たい刺激を受けて、初めて覚醒のスイッチが入るんだって。」
穏やかな横顔を見せて、ルイはまた別のひと枝をすくいあげ、
「冷たい刺激がなければ桜の花は咲かないんだよ」と、何かを諭すように同じ意味の言葉を繰り返す。

 寒い冬を越して目覚めた冬芽は、大気が温かさを増すごとにゆっくりとほころび始め、引き締まっていた樹幹もふくよかに、とりわけ若い木は、いぶし銀のような光沢を放ってくるのだと言う。
——休眠と覚醒——
 在るべくして整えられた自然の摂理の不思議さが、カイの胸裡に不思議な感応を呼び起こした。

 自分は一体何を目指すべきなのか見極めるのに一生懸命だった八か月あまり。答えを出すまでに長い時間を費やしてしまった。けれどそれは、仕切り直すための必要な時間だったに違いない。

 カイは神妙な顔をさらに近づけて、硬い苞葉に守られた小さな花芽に見入った。
「目が寄ってるよ」
 ふふっと笑いながらルイは先を歩き始めた。
「もう、笑うな」
 カイは照れながら、ルイを追ってその背中に言葉を投げた。 
 後ろ手に持った小さな布のバッグを、ルイはジーンズの腰部で跳ね上げながら
「小さい頃、この路のこと『花あかりの小径』って呼んでたんだ。」
「花あかりの小径?」
「そう、花あかりの小径。桜が満開になると、薄桃いろのあかりが灯ったようにぼーっと霞んで、周囲を照らすんだよ。それを『花あかり』って言うの」
 ルイは華やいだ瞳を上げる。
「麻亜さんが言うにはね、この時期、花あかりの小径はスイッチ・オフなんだって。青葉や紅葉の時期も、冬の最中も、春に向かってエネルギーを蓄えているの。冬芽になって休眠している間、この次の春には、いつ、どんな風に咲こうか一生懸命思考を巡らしているんだって。太陽や、風や、大地と相談しながらね」

 いつも、おとぎ話を語るような麻亜さんの感性の中で、ルイ達きょうだいは育って来たのだ。
 実際、麻亜さんは不思議な人だった。
 クレヨン教室に通っていた頃、風景画を描くときは必ずインスピレーションから入ることを教わった。

「目に入るものを描くだけじゃだめよ。自然の中にいる自分を感じてね。目に見えないけどあるはずよ。太陽の光や、風のそよぎ、草いきれや花の香り、自分を取り巻くすべての自然——」

 そうだ。懐かしいあの日。写生で出かけた美野川の草むらにしゃがみ込んで、目には見えない何かを感じるために瞑想していると、くすっと小さな笑い声がした。
 目を開けると目の前におさげ髪にリボンを結んだルイが画板とクレパスのバックを手に立っていた。

 おさげ髪にリボンのルイ————。

 カイはふと立ちどまった。
 気がつかずに歩を進めるルイとの間に距離が広がる。
 ようやく気づいたルイは五、六メートル先で、クルッと振り向いた。麻亜さんの手作りだと言う象牙色の毛糸のポンチョを緩やかにまとい、バックを後ろ手に持ったままで。

 木組のトンネルの下で二人は向かい合い、立っていた。

 遠く、懐かしい場所へいざなうように甦るひと連なりの記憶。その彼方でずっとわだかまっていた遠景が、ゆっくりと輪郭を表してきた。

   『 垣根に沿ってる‥‥別れ道 』

 聞き覚えのある旋律と一緒に鮮明になってくる詩。
 音楽教室の黒板に書かれた四行の詩が、チョークの白い文字のまま浮かび上がる。

   『 仲良しふたりが 手をあげた
     リボンのある子と リボンのない子
     あばよは口笛  みぎ ひだり 』

 若い音楽教師が、大学時代習ったのだと言う古風な童謡。単調の簡単なメロディは直ぐ覚えられた。

——仲良しふたりって、どんなふたり?
——リボンつけた女の子と男の子。
 クラスいちのおませが声高く答える。

——どんな場面だろう?
——一緒に帰る途中、わかれ道でさよならしてるところ
 オマセがまた、したり顔で答えた。

——それじゃあ二人で歌ってもらおうかな
 メガネの奥の小さな目が教室を一巡して、三つ編みの先にリボンを結んだ女の子を指名した。
——大沢ルイさん。それからもう一人は……
——高木がいいよ。高木は大沢のこと好きだから 
 からかい半分に男の子があおる。
 教室内が冷やかしの言葉でざわめくと、ルイは顔をこわばらせて俯いてしまった。

——それでは高木くん
 指名を受けた高木は照れ笑いを浮かべ、小太りのずんぐりした身体を揺すりながら席を立った。
 床に組み伏せられたり、ズボンをずり下ろされたり。優しいルイがいつもかばっていた、いじめられっ子の高木。

 ピアノが鳴り始める。
 けれど、ルイは俯いたま立とうとしなかった。
 ピアノは鳴り止み、やじも止んだ。高木だけが所在無げに、ひとり突っ立ったままとり残された。

——デュエットは中止。みんなで歌いましょう
 気まずそうな表情で先生はピアノを弾き直した。

 後方の席から俯いたままの背中を見つめながら、カイはできるだけ小さな声で歌った。
 そのさなか、ルイは後方のカイを振り返った。小さく一度。いったん向き直って、また大きく振り返った。
 目をうるませ、訴えるような一瞥に込められた思いは何だったんだろう。

「わたし、アトリエに寄って帰るから」

 気がつくと、桜並木のはずれで——じゃあね、とルイが手を振っていた。
 沈み込んでいた記憶の淵から立ち戻って、カイはふりしぼるような声で呼び止める。

「ちょっと待って、思い出したよ。思い出したんだ」
「思い出したって、なにを?」
「あの時の歌だよ。ほら、小学生のころの」
 そう言って少々あやふやな旋律を口ずさんでみせると、ルイは——ああ、と言う表情をうかべた。

 どうしても、思い出す必要があった。ルイとの別れ際、必ずつきまとう不思議な旋律の正体。
 たった今呼び覚まされた思い出の中で、はっきり捉えることができた。
 全てを伝えると、ルイは少し間を置いてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「ずっと忘れてなかったよ。昔の歌って絵画的でいいな、ちょっと切ない旋律もすきだなあって、あの時感激してた。それなのに、みんなの囃し立てる声で惨めになってしまったの。高木くんには悪いけど、どうしようもなくなって泣いちゃった。でも、泣きながら思ったの。私はいじめっ子と同罪どころか、とんだ偽善者かもしれない。だって、みんなの前で彼を侮辱しちゃったも同然なんだから」

 ルイは、懐かしさと切なさをない混ぜた表情で語った。
 ずっと封印してきた苦い思い出だったのだろう。
「思い出させてごめん」
「ううん、触れたくない思い出じゃないの。思い出すのが恥ずかしかっただけ。あの時の自分、子供だったなあって」
 と、いつものルイらしい笑顔を見せた。

 思い出に満たされながら、カイは確かめなければならない事があると気づいた。
 今のこのタイミングで聞かなければ、二度とチャンスは無い。
 息を整え、思い切って尋ねた。

「思い違いかもしれないけど、あの時、二度僕を振り返ったよね。それはなぜ?」
 カイは、物語りの始まりを証明するニュアンスを含んだ答えを期待していた。

 けれど穏やかな表情で、ルイは黙ったままでいる。そして質問を返してよこした。

「私も聞いていい?絶対譲れない幼なじみって、だれ?」
 恥じらいの色を浮かべて、まっすぐカイをみつめる。
 その視線を微笑みで受け止めて、カイもまた黙って答えなかった。
 二人は依然として距離を保ったまま向かいあっていた。

 ストイックに構えていた感情が一気に溢れて、カイは胸いっぱい息を吸い込む。そしてルイに走り寄った。

「行こう!」
 ルイの手を取ると、美野川の石橋を渡り外人ハウスの点在する林の方角へ走り出した。

「どこに行くの?」
カイの勢いに導かれるまま、ルイが尋ねる。
「決まってるだろ、東吾先生のアトリエ」


 二人は息をはずませ、手を繋いだままアトリエの前に立った。

 手前で別れるつもりだったのに、カイはなぜかキツツキのドアノックを鳴らしていた。
 そうでもしなければ、唐突につないだ手を離すタイミングが分からなかったのだ。

 ドアの向こうで「はーい」と間伸びした声が聞こえた。
 寄っていかないかと言うルイの誘いに、カイは首を振った。冬休みに入ったら先生を訪ねることになっている。
「それじゃあ」と、そのひと声の後、自分でも予想しなかった言葉をかけていた。

「あした、バス停で待ってるから。八時五分に」
 そう言った後カイの心臓は波打った。ルイの気持ちをはっきり確認したわけでは無い。その答え次第で自分の思い込みかそうで無いかがわかってしまう。
 屈折した思いで憧れていた「好きな人と歩く」朝の通学路。思い込みでなければ、明日の朝スクール通りのバス停から、遅ればせな青春のドラマが始まるはずだ。

「八時、五分ね」ルイはキッパリとした意志見せて念を押した。
 カイは舞い上がる気持ちを抑え、崖上に続く坂道に向かって一目散に走り出した。

「花あかりの小径」でふたりは何も伝え合っていない。でも心を読み取って確信をつかみ、それぞれの胸で受け止めたのだ。

 翌朝、カイは、約束した時間の一台まえのバスに乗ってルイを待った。
 やがて、学生たちで満杯の車体をきしませてバスが止まった。
 ザワザワとはき出される群衆の最後に、待ち人はステップを降りた。

「おはよう」
 同時にあいさつを交わし、肩を並べてスクール通りを歩き出す。照れながら、ぎこちなく。
 ゆっくり歩くことに慣れていない二人は、哲と後輩の女生徒を、気付きもしないで追い抜いてしまった。
 彼らの「あれっ」という目が二人を追いかける。そして、行く先々で幾つもの「あれっ」と言う目が注がれた。
 ルイが微笑みながらささやいた。
「私たち、まるでビクトリーロードを歩いているみたい」

 冬休みを挟んで自由登校が始まるまで、こうして過ごす朝の時間はほんの僅か。
 カイにとっては、祖父のもとに行ってしまうルイと過ごす、濃密な時間に他ならない。
 限られた日々を、慈しむように、二人は朝の通学路を歩いた。

     *           *           *           *           *           *           *          *

 下村は合格を勝ち取ったと連絡があった。
 あとの心配は一般入試で受験する哲ひとり。
「落ちたら他所の事務所へ奉公に出されちゃう」と言いながら、実務経験を積むのもいいかなと安閑と構えている。
 哲は心配の範疇にないようだ。

 数日前、美幸から届いた葉書には、予定していたフアミテージホテルの仕事がはじまった、と書いてある。
 マウントクックを訪れる日本人観光客のガイドをしてるらしい。今は多忙なので詳しいことは年明けに手紙で——とあった。

 母は、すつかり環境を整えおわり、来年の開講を待つのみとなった。

 ひとつひとつ、思い出のかけらを集めながら、良かった事も悪かった事もひっくるめて、ここまでこれたのは、内から、外から、暖かく支えてもらった人々のお陰だと思うのだった。

         ☆    エピローグ へつづく 






  

 

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