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それ自体は良いこと(6月エッセイ④)

飲食店で食事を済ませ、そろそろ出ようかなくらいのタイミングで、水のお代わりを満タンに注がれると、お店を出づらい。
出づらいし、注がれたら飲み干さなきゃと思ってしまう。
思ってしまうし、ゆっくり飲んでいると、また水を注がれてしまう。
結果、振り出しに戻って出づらくなる。
半分以上は残しておいて、自分がお店を出たいタイミングで一気に飲み干す。いざ会計を済ませようと立ち上がると、お腹がたぷたぷになっている。
ただ単にお水を注がれる時、「大丈夫です」と言えればいい。だけど、人の厚意や気遣いをむげにすることには強い抵抗がある。

お水を入れるという気遣いが存在していて、お水を飲み干すという気遣いも同時に存在しているように思う。僕は注いでくれた水を飲み切ることによって、相手の気遣いに対する感謝と誠意を示しているつもりだ。水がもったいないし、洗い物をする際に水を捨てる手間を省くことができると考えている。


何度もお水を注いでもらえるのは、店員さんの優しさであるのに、それを重荷に感じてしまう自分はすごく嫌な奴のように思える。
お水を注いでもらえなかったら、それはそれで気が利いてないと感じてしまう。オフィス街の牛丼チェーンではまず注がれない。カウンターの通路すれすれに空のコップを置き、“お水欲しいですよアピール”をしても、見向きもされないことが多い。注文した商品を提供した時点で、客に対するサービスは終了している。客の回転を上げたいというお店の気持ちもわかる。

最近、怪物という映画を見た。
真っ当に育って欲しい、しっかりした大人になってほしいという大人の思いとそれを受ける子供の複雑な思いが描かれている作品だと感じた。客観的に見ても、まっすぐで純粋に思える愛情が、自分の価値観の押し付けになっていたり、子供の心を苦しめていたりしないだろうかと考えさせられた。僕は、結婚していないし、子供もいないけど、自分が感じていた人間関係で感じる違和感や矛盾を、同じように感じている人たちがいることを知って、少し救われた。
親から結婚するまでは面倒見るからと言われても、もし子供が異性にも、結婚にも1ミリも興味がなかったら。でも、親に悪気がないことなんて分かっているし、それが“愛情”と呼ばれていることは、子供も知っている。だからこそ、親の愛情をまっすぐに受け取れず、それをまっすぐ返せない自分自身を責めて、葛藤する。子供は親の考えている以上に色々なことを考えている。

話はかなり逸れたが、“家族愛=無償の愛”みたいな考え方をよくしていると思う。だけど、受け手からしたら、期待を感じ、何かを返そうとする気持ちが自然と働く。それって、果たして無償の愛なのかなとも思う。
映画を鑑賞し終わった時には、「こんな話は大分先か、一生他人事で終わるんだろうな」と思っていた。だけど、お代わりの水を入れる行為って、誰がどう見てもただの優しさであって、無償の愛そのものであるように思う。僕のように“もういらないけど、店員さんに申し訳ない…”と思いながら無理に飲み干すことなんてせずに、残しても別にいいと考える人、もしくはそんなこと考えたことない人がほとんどだろう。
でも、日常のほんの些細な生活規模でも、送り手と受け手の間で愛とか優しさのちょっとしたズレって発生している。優しさで溢れていても、その優しさをうまく受け取ることができないこともあるのだなと、たった1杯の水に考えさせられることになるとは。

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