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見られる(3月エッセイ④)

 エッセイを書く時、あるいはSNSに何かを投稿する時、僕は人が見ているということをそれなり意識して書いている。言葉のニュアンスをできるだけ柔らかく、大袈裟すぎず、かと言って曖昧になりすぎないように、といったことを心がける。

 自分以外のどれだけの人が、人に見られているということを意識しているだろうかと時々考える。たまたま見たテレビでモヤっとした時、満員電車に乗っている時、乗り気じゃない飲み会に参加している時、思い浮かんだことをノータイムで不特定多数の人間に見せることができる。それにかかる消費カロリーはほとんどゼロに近いものだと思う。

 イライラした時に感じたことを書こうとすると、破裂した水風船のように言葉が溢れてくる。ムカついた物事への罵詈雑言がドバドバと出てくる。いざ投稿しようと内容を見返すと、文章の端々に言葉の汚さが目立つ。怒りのパワーで書いた文章は、何かギザギザとしていて、抽象的で荒い。わざわざ人に見せるものでもないし、こんなことでいちいち声を大にしてキレるやつだと周りに思われたくない。言いたいことが何かあったかというよりも、体に溜まった負のエネルギーを今すぐに放出しないといけないという脅迫観念に駆られただけであることが多い。

 ただ、たまに何日経っても怒りを抑えられない出来事がある。面白話にできるほど許せてもいないし、愚痴るにしても知り合いを不快な気持ちにさせないよう感情を抑えることも難しそうなときがある。そういう時は、手帳かノートにその出来事の経緯と自分の気持ちを書き込む。どれだけ言葉が荒々しくても、人を傷つけまくっていても、自分しか見ることができないので関係ないと思って、ひたすら頭に浮かんだことを綴る。そのうちに気持ちが落ち着いて来たり、話がまとまり出して「ここは人に話せるレベルの落とし込めそう」と思えたり、自分の悪いところも見えてきて経験値として蓄えることができるようになる。

 個人的な感覚として、陰キャという言葉の浸透とともに、卑屈な目線での悪口や愚痴を人前で言うハードルが下がっているように思う。妬みや僻みをはらんだ嫌味な正論や揚げ足を、割と平気な顔をして言う人が増えたように感じる。特にSNSを見ていると、むき出しの言葉が並べられているように思う。僕は自分も汚い言葉を思いつくわりに、そういった投稿を見る度に、胸がギュッとなる。

 人の悪口や裏話をエンタメにしているものを見ていて思うのは、悪口という行為自体が面白いのではなくて、その人の話す内容がとにかく面白いということだ。人との関係性や面白くするための編集があるのもそうだけど、公衆の面前に触れているという意識がまずあって、人が聞いて笑える範疇というものをすごく繊細に捉えているように思う。

 人の悪口ばかり言う人、SNSにノータイムで愚痴を書き込む人たちは、共感とか承認をもらえるとか、なんなら面白いと思って言っているのかもしれないけれど、そういう人たちは別の陰口に潰される危険と常に隣り合わせだ。

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