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ネガティブ封印、そして。(1月エッセイ④)

朝通勤中に、商店街を横切ろうとしたらそれなりの速度で車が来て、轢かれかけた。
通勤時間帯に人通りの多い場所で速度を出すドライバーは危険だ。どんな人が運転していたのだろうと気になった。一応顔をチラ見しようとしたら、運転手が僕の顔を3度見してきた。ほとんど睨んでいた。

僕は運転手をヤバい奴だと思ったけど、運転手は僕を飛び出してきたヤバい奴だと思ったのだろう。僕は、3度見してないで前見ろ、前方不注意だぞと思ったけれど、運転手はきっと『周り見て歩けよ、轢いちまうぞ』と思っていたに違いない。

こういう時、「うわ、危なかった。次は気をつけよう」と思うより先に、運転手に対して「ふざけんな」という気持ちが来てしまうのはどうしてだろう。少し前の自分だったら、『やっちゃった…。なんで自分っていつもこうなんだろう…。』と自分を責めて反省していたように思う。

少し前からネガティブを意識的にやめるようにした。
なんでもかんでも自分のせいにするのをやめ、嫌なことがあってもどう解決するかを前向きに考えるようにした。起きたことは仕方ないとして、負のループに入らないように気をつけた。
基本的に物事を前向きに捉えたり、取り組んだりしている時の方が充実している感覚がある。その感覚を掴んでからは、別にネガティブじゃなくてもいいという価値観になっていった。だから、多少のことでへこたれることはないし、少しは他人のせいにして乗り越えるという術も学んだ。
ネガティブな気持ちや考え方がエッセイを書く原動力にもなっていたけれど、人生の大半をネガティブに捧げてきたゆえに、もはやネガティブは意識せずともできるものになっていた。身に沁みついたネガティブは、勝手に発動するものであって、制御できるようなものではない。
逆に言えば、何も考えなくても陰鬱とした感情を持つことができる。

ネガティブにならないということを意識してきた結果、冒頭の運転手との一瞬のやりとりは全て相手のせいにすることにした。
自分のせいにしてクヨクヨしていても仕方がない。どう頑張ってもネガティブな自分がひょっこり顔を出して、自分を責める自分は必ず生まれる。でも、朝から嫌な気持ちになって、それを引きずったまま1日を過ごしたくはないから、「相手が悪いっしょ!」と自分に言い聞かせる。
ただ、ポジティブになって強くなった自分が到達すべき場所はここだったのかと、迷いは生じる。

他人の揉め事とかイラつきを見ていると、こんなすれ違いばかりだと思う。自分が絶対的に正しいとか、相手が完全に間違っているからと感情をむき出しにした態度をぶつけるから状況がややこしくなる。
SNSでイライラを投稿する人を見ていると、どこにもやり場がないからというよりも、可哀想な自分に対する承認欲求もしくはムカついた奴への攻撃を煽っているようにしか見えない。

僕も運転手に轢かれかけたと書いたけど、危険な道の飛び出しをしたのは僕かもしれない。
ネガティブな自分に負けないために、「相手が悪いっしょ!」と自己暗示したとしても、その考えは外に出すことなく、自分の中で留める。

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