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他人を否定してる瞬間に現れる自分のくすみを見逃すな(1月エッセイ③)

会社からの帰り道、本屋に寄った。
売れ筋コーナーにあった本の帯に、
「人生の考え方が変わりました。こんな感覚は久しぶりだ。(13歳男性)」と書いてあった。
なんとなくモヤモヤして、その日はすぐに本屋を後にした。

中1で人生の考え方が変わる?それだけならまだしも、こんな感覚は久しぶり?
帰り道どれだけ考えてもこのぐるぐるした感情が晴れることはなかった。
“13歳男性”がどんな人生観を持っていて、その本と出会ってどのような変化が訪れたのか、それを知りたくてしょうがなかった。
ただショックだったことは、13歳のこの言葉に自分が心の底からは寄り添えなかったことだ。

帯のこの言葉を目にした瞬間、1番最初に浮かんだのは「13歳の人生観って何?久しぶりってなんだよ、あんまカッコつけんなよ。」という偏見と悪意に満ちた印象だった。そう思ってしまった次の瞬間、自分はなんてことを思ってしまったのかと後悔した。エッセイで子どもをなめる大人や他人の感性に口を出す人にイラついたという話を書いている自分が人に同じことをしてしまった。自分が中学生だった時に当てはめて、そんなわけないと断じてしまい、自分の浅ましさを自覚した。

小学生の頃、テレビの街頭インタビューなんかで、スカして妙に大人びた回答を見せる同年代くらいの子たちに対して、「子どもなんだから、もっと可愛げのある素振りとか回答をしたらいいのに」と思っていた。今思えば、自分自身、相当可愛げがなかったに違いない。小学校高学年くらいになってくると、“大人ってこういう風にして見せてればいいんでしょ”というずる賢さを身につけだす。大人の求める子どもらしさに自分から当てはめに行って、良い印象を持たれようとする。
でもそれって結局、こうあるべきとかこうでなくてはいけないということにとらわれているだけで、本来大人が求めている無邪気な可愛らしさという姿からは1番遠のいている行為だと思う。
メタで物事を捉えることがカッコいいと思ってしまっているのがダサい。
インタビューで大人びた回答をする子どもだって、大人によく見られようとしてやっているのだとしたら、自分の媚びとやっていることは根底では同じだ。
他人の言動に対して「何やってんだこいつ(笑)」と思う瞬間にこそ、自分の嫌な部分を直すチャンスが存在する気がする。どれだけ自分はまともだと思っても、他人によって自分の嫌な部分を炙り出される。
自分も本によって人生の方向性を決めてきた。“13歳男性”が本によって得た言葉を簡単に否定してしまって、自分が本で得てきた人生観ってこんなちっぽけなものかと思った。自分の道程を否定しているのと一緒だ。

誰もが違う感覚を持っていて、偏見に邪魔されない世界というものに憧れる。だけど、自分にとってこうあってほしい世界というのを自分自身が阻害してしまっているということを“13歳男性”に教えてもらった。その人に向けた自分の偏見と悪意こそ、憧れた世界のためには捨て去らなければならないはずだ。反射的に偏見を持ってしまう今の自分には、きっと今すぐに捨て去れと言われても、流石に難しくはあるだろう。
「人のふり見て我がふり直せ」という慣用句を編み出した人には足を向けて寝ることができない。最低限、人の行動を見て、自分の行動を顧みることのできる人間でありたい。

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