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literary fragment 「飛行機が墜落しないように見張ってるんだよ」

わたしの父は、生涯一度も飛行機には乗らなかった。「飛行機が墜落したら困るから」が口ぐせで「飛行機が落ちる確率は交通事故に遭遇する確率より低いんだよ」とまわりから言われても、「確率がゼロではない限り乗らない」と頑として譲らなかった。父は会社で責任のある仕事をしていたから、万が一でも自分の身に何かあったらいけない、と考えていたのだろう。

組合の旅行で九州へ行くときは、飛行機で行く仲間を追いかけて、茨城から九州まで電車を乗り継いで、数時間遅れで合流していた。そんな父に付き合って、一緒に電車に乗り、飛行機組を追いかけた電車好きな、物好きな方もいた。
その方が、亡くなった父の為に線香をあげに来てくれたとき、「その道中がとても楽しかったんですよね。人生でいちばん輝いていた時代でした」と、おっしゃってくれた。 あれはあれで誰かの記憶の中にも、よい思い出として今も残っているみたいだ。

「飛行機は乗ってはならない」という父のポリシーの影響で、わたしも飛行機に乗ったことは人生で4回しかない。それも30歳の記念の長崎旅行と某企画に選ばれて無料で行けた初めての海外、韓国旅行のみ。

それを言うと、まわりからかなり珍しがられる。今の若い人はあまり旅をしないと聞くけれど、わたしの若い頃は、お金を貯めて海外へ行くのが、ある種ステータスだったし、海外旅行に行くひとが多かった。「飛行機は乗ってはならない」というポリシーが我が家になかったら、旅好きのわたしは歯止めがつかず、海外旅行三昧の生活を送っていたかも知れない。いい意味でこの家訓のようなものが、わたしのストッパーになっていたと思う。

もっとも、国内旅行は高速バスを乗り継いで格安で行くハードな旅をしまくっていた。関東からバスで九州や中国地方までいろんなところを旅してきた。飛行機で行きたい友人とは、現地集合で合流したことも何回もあった。わたしも父と同じことをしていたことに気づき笑ってしまう。

祖父と飛行機

父が亡くなってからしばらくして、父の職場の机の引き出しに入っていたものが、我が家に届けられた。その中には、なぜか、祖父が知人と作った会社の記録メモが入っていて驚いた。
父のまるっこいボールペンの字で、几帳面に書かれた祖父の作った会社の年表には、祖父が戦時中、東京で中島飛行場と肩を並べるくらいの工場で、ゼロ戦の部品を作っていた、と書かれていた。中島飛行場と言えば、日本本土に初めて空襲があったときに狙われた飛行機工場だ。しかし、記録に残された情報から、色々と調べてみたが、年表に矛盾点も見つかりなかなか真相を掴めない。当時のことを知るひとはもういないから、謎は膨らむばかりだ。

でも、この年表のおかげで、生前は聞くことのできなかった戦争時の祖父に近づけた気がした。戦時中の祖父のことを知りたかったけれど、知る手がかりがなかったので、この年表が突破口となりそうな予感はしている。今後も調べられる限り、祖父の会社のこと、祖父の人生は、追ってみたいと思っている。

そういえば、最近、思い出したことがある。祖父は晩年、家の側に陶芸をするための小さなアトリエを建てていた。優雅な隠居生活を楽しんでいて、毎日のようにエプロンをつけて土をこね、うつわを焼いていた。
そんな祖父は飛行機が空を行き交うたびに、アトリエの外に出て、空を見上げることが多かった。

小学生だったわたしは「どうしていつも飛行機を見ているの」と聞いたことがある。祖父は「落ちないように見張ってるんだよ」と答えていた。そっか、祖父は家の上に飛行機が落ちないように見張ってるんだ。祖父が見張ってるなら、わたしのうちはいつだって無事でいつまでも安心なんだな、と子どもながらに思っていた。

祖父はどんな気持ちで飛行機を見ていたのだろうか。センチメンタルで、勝手な孫の独りよがりの想像かも知れないけれど、あの日、飛行機を見上げていた祖父に、できるなら話しかけたい。

祖父からは一度も飛行機の仕事にかかわっていた話は聞かなかった。母でさえ知らなかったそうだ。もちろん、戦争の話もあまり聞けなかった。

今でも飛行機を見上げていた祖父の姿は、思い出そうとすると、8ミリフィルムの映像のように、頭の中で映写される。


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