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メンタルケアと、人付き合いの悩みの改善のために、わたしが5年かけて勉強してきたこと

さて。
自分がこの記事を公開するに至ったのは、様々な人との出会いが理由です。

以下に綴る記事は、『こころのこころえ』という、1年前に書いたメンタルケアの自分用・親しい友人たち用のまとめです。
メンタルに問題を抱える友人たち、仲間うちに共有するために書いた、自分のあゆみの1部になりますが、誰でも見られる場所に置いておくことで、役に立つ可能性があると踏みました。

拙い部分も多々ございますが、現在の私が小さく補足をしながら、軽く改変した記事を置いておきます。情緒不安定や、人との付き合いに悩まされている方、社会になじめず、疲れやすくて、毎日辛くてしょうがないという方は、ぜひご一読くだされば幸いです。

・・・

自分は多分一般的な人よりも情緒が不安定な傾向にあって、それを改善して楽にするために今まで色々なことをやってきました。

ここでは、あまり自分の人生の話をして自分語り〜のコーナーにする気はないです。だから詳しく突っ込んでは書かないけど、4年くらい前(執筆当時。現在軸から5年ほど前)、ひとり暮らしをはじめてから鬱病かそれに近い症状があって、もうほんとうにどうしようもなくなってスクールカウンセリングに行きました。

スクールカウンセリング自体は中学校のころから受けていて、はじめからあまり抵抗はありませんでした。でも病院には抵抗があったのと、初めて行ったところが合わなかったので、ほとんど行ったことがない状態です。

なんの診断ももらっていないけど、腕のいい臨床心理士さんとお話して本当にたくさん調べて、自分のことはけっこうわかってきました。ADHDの傾向があること、親が許せなく欲しい愛情を受け取れなかったアダルトチルドレンであること、人より聴覚の刺激を受けやすいこと、情緒の波が不自然にあとを引いて、落ち込む期間がすこし長すぎること。

で、それをわたしがどう思ったかとか、自分って特別なんですよねみたいな、そういう話をするつもりはないです。客観的に見てすこしむずかしい個性があったから、コントロールの練習をたくさんしました。その実践的な話とかを誰かに共有することができたら、1人くらいには役に立つかと思って。

私に合っている方法しかないので、役に立たないこともあるかもです。でもわたしのTL(ツイッター上のタイムライン)にはわたしと同じように生きづらそうで、情緒の波がすこし大きすぎる人たちがたぶん何人もいると思います。

SNSのいいところは共有できるところだと思います。わたしもまだまだ不安定になるし、いろんな人に助けてもらっておかげさまでなんとか生きていますが、そんななかで手にしてきたものが誰かの役に立てればと思っています。



【人との距離感の話】

このアカウントをはじめたときから言っているけど、わたしは人付き合いが苦手です。わたしは人に『寄りかかられる』という経験をすごく多くしてきて、それが怖くてずっと悩んでいました。

頼られることは嬉しいことです。支え合えることは素敵なことです。でも自分の許容量をこえているのに、聞ける範囲より重すぎる悩みごとを過剰に相談されてしまうことがありました。(誰でもいいから吐き出せればいい、相手の気持ちなんて関係ない、という人から捌け口として利用されてたという意味) そういうの、断ればいいとか自分優先!って言われても、どうやってやるのか全然わからなくて、いつも自分の負担が大きすぎて体調に響くことがあったんです。

悩みごとだけじゃないんですけど、飲み会で自慢話ばっかりされて全部まじめに聞いちゃって疲れるとか、バイト行くだけでかなりしんどいのにノリノリで喋ろうとしちゃう自分がいるとか、とにかく距離を適切に離すことができなくて悩んでました。

大切なことがいくつかあります。たぶん多くの人が自然とできていること、もしくはまったく気にしていないことです。でもわたしはわざわざ意識しながら生きて、人工的かつ後天的になるべく自分を楽にしてあげています。



きょうはね〜〜、4つある。でもめっちゃながいから、ぜひ暇なときに1項目ずつとかで、お菓子でも食べながら読んでみてください。


①物理的な距離をあけること。

わたしは人との距離が近すぎました。じぶんの守りたいパーソナルスペースが他人よりすこし広かったとも言えます。

とかいいつつ、わたしも女の子のお友達と会って久しぶり〜〜って抱き合ったりするし、じゃれてなんとなくくっつくこともあります。そういうのじゃなくて、そうやって敢えて近づくことを想定していないシチュエーションのときに、人との距離が取れていませんでした。近くにいるだけで相手のエネルギーを細かく感じ取って疲れるし、わたしの場合はじぶんの領域を侵害される不安を(大好きなひとに対しても、そんなことないとわかっているのに)感じてしまうことがままあります。

だから、人との距離をわざとすこしだけ広めに取るようにこころがけました。しんどい瞬間に気づくことがまず第1歩なのかなと思います(わたしはじぶんが不安なことにすら言われるまで気がつけなかったです)。細かくじぶんの不快を意識して、例えば会話中に「あ、」と思ったらさりげなく1歩離れてみるとか、そういうちいさなことからはじめます。

向かい合わせに座っているときでも、少しだけ上体を後ろに逸らす、座る位置をじゃっかん後ろにずらす、もしくは椅子をさりげなく引けばそれだけで疲れる割合が減ります。好きな人に感じたくもない不安を感じることも、それで自分に嫌悪することも減ります。


②自分と誰かの間に線を引くこと、もしくは透明な壁を作ること。

スピリチュアルじゃないです。

でも頭の中のイメージって、こころの動きを安定させるのにすごく大切なものだと感じています。物理的な距離が取れるようになったら、それと同時に境界線をイメージしていく練習をしました。専門的にもバウンダリーって呼ばれてるみたいです。

これHSPの本とかにもいっぱい書いてあるんだけど、個人的な体感としては、イメージしたらはいっ解決🙌とはどう頑張っても流石になりません。わたしは何回も繰り返さないとできるようにならなくて苦労しました。

具体的には、線は普段から意識していくもので、壁はじぶんが辛くなったときや愚痴を聞くときに意識するものです。

誰かといるとき、すぐ辛くなる場合は、まず普段から線を引く練習をします。ふと思い出したらその都度、自分と誰かの間の地面にはっきりとした線を引くように、境界を区切るイメージを持ちます。色は関係あるか分かんないけど、わたしのなかでは白く光る線です。

じぶんと誰かは別の人間です。でも人間関係に悩みやすい人は、自分と誰かを混ぜてしまいがちです。前のめりに他人に協力をしたり、自分に余裕がまったくなくても誰かのことを助けようとします。

誰かに理不尽なことを言われたとき、もしどうしても我慢しなきゃいけない場面だとして、真っ当に食らってぼろぼろになる必要なんてまったくもって無いです。そういうときは間に線を引きます。それで唱えます。自分と他人は別。わたしはあの人じゃない。あの人は私の中身を侵害できない。わたしの権利はわたし自身にある。



怒られるときと長い愚痴を聞くとき、あと、喧騒で目眩がしそうになるときは、ドーム状の透明な壁を自分のまわりに張ることを心がけます。APEXの水色のやつです。

ほんとにAPEXみたいなんだけど、上から投げもの(怒鳴り声や愚痴w)が降ってきてもドームシールドの中までは入ってこないし、自分には当たらないって感じです。愚痴られるときってストレス発散のサンドバッグに利用されてるのか、自分に気を使ってくれながらも心を許して話してくれてるのかは、だいたい見てたらわかるじゃないですか。サンドバッグにされそうなときは回避不可なら速攻ドームです。気遣いながら話してくれる大好きなひとでも、ちゃんと自分と他人なんだって意識的に分けて話を聞きます。そうしないとじぶんのHPが減りすぎて回復できなくなってしまうから。

ライブハウスとか満員電車とか、物理的距離をとりづらい場所でも同じように周りにドームをはると、イメージだけで自分を守れます。

余談ですが、愚痴を言うとき、わたしは「聞ける範囲で聞いてね」と前置きしてから話すようにしています。でも全員がそうするわけじゃないし、そうする人がえらいわけでもないです。相手は話したいから話してて、それは責められるべきことじゃないです。じぶんが聞けないって意思表示できずに無理してうんうんって聞いてるから、『聞ける余裕ない』って伝わってないのよ。

それはもう、スパルタに言うと自己責任です。言い方きつかったら、、すみません。でも聞けない範囲のやつが来たときに『これ以上は難しい、ごめん』って自分自身が言ってあげられないと、自分以外に誰も自分を助けてあげることはできないんです。


③無理なことは無理せずに断ること。

これがまぁ、、そんなん出来ないが?!やるやらないじゃなくて不可能だが?!どうやってやるの?!って思うよね。思わない?おめでとう。思う人は読んで。

そう思いながら何回も繰り返して、半信半疑でやってくしかないです。でも繰り返してたら私はだいぶ上手にできるようになってきました。

わたしのなかでは出来なかった理由が明確にひとつあって、『嫌われるのが怖い』ってことでした。

②で考えた『じぶんと誰かは別』が、また③をやろうとすると曖昧になって、【誰にどう思われるか】ってことを自分が操作できると勘違いします。でもそれは勘違いです。

残酷だけど、それは勘違いで、じぶんは誰かの気持ちを操作できない。嫌われたらどうしようっておもったら、『そこから先はわたしの問題じゃない』って頭のなかではっきり唱えます。自分がどう思って、どう行動するかは自分の問題です。でも、その結果相手がこう思ったら……以降は相手が考えることです。

正直、なかなか無理です。わたしも今でも完全にはできないし、嫌われることはすごく怖いです。そりゃあ好きなひとには自分のことを好きでいてほしいし、嫌な印象は持たれたくないです。

ただ、それはわたしが決められることじゃない。気が乗らない何かの誘いや、気が乗ったのにどうしても都合の合わなかった誘いを断ったとき、断ったあと相手がどう思うかはわたしの考えることじゃないんです。おなじように、ああ言えばよかった、言わなきゃよかった、と1人反省会がはじまるときも、結局それを相手がどう思ったかは相手の問題で、わたしの問題じゃない。わたしは断りたかったから断った。相手は誘いたかったから誘ったんです。どっちもOK。好きなことしてるだけ。腑に落ちるまでに時間はかかるけど。

ちょっと違う角度から話すと、自分と相手で責任を折半している、という感覚を持つとよいです。たとえば誘いを断ったとき、相手が『どうしよう、誘わなきゃよかったかな。しつこくしちゃって嫌われたかも』と思ったとしましょう。でもその人を嫌いになるかどうかは断ったわたしが考えることであって、相手が考えることではないんですよね。

会話が続かなくて気まずい、も同じです。気まずいのは『うまく喋れなくて申し訳ない、、』とかって思うからです。(わたしはね)

でも、空間を作ってるのはわたしだけじゃない。相手とわたしでつくっているんですよね。だから気まずさの責任は折半です。はんぶんずつです。わたしがしゃべらなくても、相手もしゃべってないし、自分だけを責める必要はないです。相手に『この人何も喋らなくてつまらないな』って思われてないかしら、なんて、ほんとうはすごく自意識過剰なんです。

だって自分は『じぶんが何も喋らなくてつまらないって思われてないだろうか』ってことばっかりずっと気にしてる。なのに相手が上から目線で『この人は喋ってくれないからつまらない』とか、本当に考えていると思いますか?

たぶん、常識的なひとだったら、みんなそんなこと考えてないです。相手も相手で『喋れてなくて嫌われてないかな、申し訳ない』って多分思っています。自分と同じ気持ちだと思ったら、そこから協力してふたりのコミュニケーションをしていけばいいし、ふたりとも喋らない空間があるなら、その空間を楽しんでもいいはずです。もしくは相手が気まずそうにしてたら、大丈夫だよって言ってあげればいいです。わたしも全然しゃべってなかったしね〜〜、って。

こういう感覚が腑に落ちてきたら、自分の見られ方ばかりを気にする生き方から抜け出せて少し楽です。そもそも相手が『この人はしゃべってくれなくてやりづらい(=この人は私をおもてなししてくれない!)』というふうに考えるひとなら、コミュニケーションをこっちに丸投げしてる時点で傲慢なんだから、嫌われてもいいなって思えます。


④過剰適応しないこと。

いい子でいたくなる気持ちを我慢すること。です。

苦手なひとの誘いを断ったあと、『今度は絶対行きたい!!また誘ってね!!本当に残念……!!!』これです。

なぜか苦手な人との距離が縮んでしまって、うまくあけられず苦しんでいるとき、自分自身にも原因がある場合っていうのは往々にしてあります。嫌なことされても笑って耐えてない?それどころか大好きだよ!!って全身で伝えてしまってないですか?苦手な人にはちゃんと距離を示さないと、向こうも自分も幸せになれないです。

たとえば、距離が近すぎて苦しんでいて、あの人はいつもわたしの扱いが雑だなあって感じていたとする。自分にも原因がある場合があります。雑な扱いを『嫌だ』『やめてほしい』って言えないまま溜め込んでしまってて、相手も『あ、OKなんだ』って思ってるから、関係性が辛いままになるとか。

言葉にしてはっきりと伝えられなくても、なにか嫌なことを言われたとき、笑わずに『あー、うん』って言えばいいです。笑っちゃったら向こうもおっけーなんだなってなってしまうから、自分の価値がどんどん下がっていきます。波風をわざわざ立てるのはおすすめしませんが、『ブス』って言われて『あはは、だよね〜』って、そんな生き方は健康に悪いです。

苦手なひとの誘いを断るなら『せっかくだけど、やめとくね。ごめんね!』でいい。嫌いなひとだけど仲良くしなきゃいけない〜って状況があるとして、『誘ってくれてありがとう!またの機会に』て何回も言えばいい。次の機会をじぶんで生み出して鬱になって悩むのは、なにも波風を立てなくたって、縁を切らなくたってやめられます。

嫌いな人から、距離を置いて付き合えば上手くやれる人までさまざまです。距離を置いて付き合っていきたいなら、距離を置いて付き合っていけばいいです。距離は保ちたいけれどすきな人も、顔見たくないほど大嫌いな人も、ぜんぶいっしょくたに縁切るとか、そんな悲しいことする必要ないです。

好きだけど長時間いると疲れるなら、無理して長時間いることを選ぶのではなく、縁を切ることを選ぶのでもなく、ふたりの気持ちの折衷案として『短時間の幸せ』を一緒に過ごせばいいよねって思います。



こういうの、いっぱい、ずっとやってきました。
今日書いたことはほんの一部です。


自分を大事にする、という話の核心には今日は触れてませんが、ぜんぶの練習がほんとうにたいへんです。自分には絶対できないよと思ったり、自分を大事にしてあげられなくて、なんで尊重してあげられないんだろうって消えたくて死にたくてしんどい日もでてきます。(わたしは)

でも、自分を責めても自分を抱きしめてもどっちみち消えたくて死にたくなるんだから、抱きしめる努力に挫折して泣くほうが人生的にはいいなって思います。

あと、ほんとうに4年くらい経ってやっとさいきんのことなのですが、節約でご飯抜こうかなって思うと『えーほんとに?たべときなよ。お金より身体だいじにしてほしい』ってもうひとりの自分が言ってくれるし、朝起きられなくてしんどい日があっても、『いや、しんどいよね。だいじょうぶよ。勢いよく起きなくてもいいから、わたしと一緒にゆっくり起きあがろうね』って言ってくれます。それは他人の承認よりもずっとずっと気持ちよくて、しあわせなことです。

やめなくてよかったよ。がんばってよかった。
今でも情緒はひとより脆いけど、今はものすごく落ち込んだときでも、自分がいちばんそばにいてくれるんです。

長いけど備忘録を書いてみました。ひとことでも誰かの役に立って、少し楽になる手助けができたらいいです。

次回は『自分を許してあげる』の詳しいおはなしをしてみたいと思います。(需要が1人にでもありそうな雰囲気や波動を感じたら、また書きます)

こんなに長い文章をさいごまで読んでくださって、本当に本当にありがとうございました○!


・・・

読んでくださり、ありがとうございます。

続きを書きます、と綴ってはいるのですが、これをまとめるには私もだいぶ気力や体力、まとまった時間が必要になるので、現在軸のわたしから申し上げますと続きを書けるかどうかは分かりません。

それでも、一度書いたものは置いておいてもいいかなと思いました。
この記事がどなたかの心の助けに少しでもなっていましたら幸いです。

2023.02.21 唯々.


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