ジブリを観たことない人間が新作ジブリ映画を観に行く日

・前提 私はジブリを知らない

「スタジオジブリ 最新作」
「宮崎駿監督作品」

 馴染みがない。ほとんど観たことないからだ。

 正確には、ラピュタの後半だけTV放送で見た記憶がある。データ放送で"バルスカウントダウン"をやって冷ややかな目を向けられるよりは昔だったと思う。私にとってジブリはインターネット上のどこにでも存在する断片的な情報だった。ちょうど『ジョジョの奇妙な冒険』本編に触れたことのない人の境遇に似ている。

 もう一つ、高校生の頃の漢文の授業で『千と千尋の神隠し』の冒頭と結末だけを見た。確か当時取り扱っていた漢文の作品が異世界の桃源郷を舞台にしており、導入と末尾の構成がよく似ている事例として提示されたものだったと記憶している。ファスト映画もびっくりのひどいネタバレではあるのだが、『プレデター』と同じくらい誰でも知っている作品だと認知していたので気にすることもなかった。なかったが、「あの蜘蛛みたいなおっさんやBIG赤子はなんなんだ」という疑問だけが残った。あと、あの山奥の飲食店はどう考えたってキャッシュレス対応していないだろう。


・好機 中身不明の映画

 Twitter(とても不具合が多い)を眺めていると、謎のペリカンマスク戦士の画像を改変したイラストが頻繁に流れてくるようになった。それが新作映画のポスターだと気付いたのは数日経ってからである。しかも公開日を目前に控えてなお、ポスターしか情報がないと聞く。

 ありがたい。そう思った。ジブリ作品をあまりにも観てこなかった人間は、ジブリに触れる機会を自ら捨ててしまうというのがここ数年で得た発見であった。というより、私自身の気質なのかもしれない(※日本の大都市に住んでいながらマクドナルドを5年間食べずに暮らしたことがあり、これを多少自慢できるんじゃないかと思い込んでいる)。「なにもしない」を特定の物に対して続けているという自覚がだんだん面白くなってしまうのだ。よろしくない。不意に飛び込んでくるような強めの刺激物で解決したかった。

 既知の情報とほとんど繋がりがないのも好都合だ。例えば、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のフェーズ4以降で飽きてしまった理由は映画の価値が「既存の情報と関連づけられた新しい情報」でしかなくなったと感じたからである。実写スーパーヒーロー映画でできる表現も底をついたような気がしつつ、あくまで情報摂取体験として割り切った結果、全然楽しくなくなった
 あと、シンプルにつまらないドクター・ストレンジ2を見てしまったのがトドメになり、今や未見マーベル作品のネタバレをインターネットで読んだりもしてしまうことをここに懺悔しておく。ともあれ欲しいのは「未知の体験」だった。中途半端に知っているものに後から遅れて触れるより、ずっと気分がいい

 そういうわけで、私にとって非常に好都合な映画が現れたのだった。体験として面白そうだと思ったし、ジブリは有名だから話のネタにもなるし、あわよくばレビューを書いてウケを狙いたいとも思った。だから初日に観た。なお、ここまでの文章は鑑賞前に記述したものである。




※当然、これより先はネタバレを含みます。



・そして、観た

 お、面白…!!!

まず表層的な話

 ずっと集中して見ていても飽きない繊細な描写が心地よかった。寡黙でありながら一つ一つが嫌な誇張なくスッと入ってくる小説を読むような鑑賞体験がとてもよい。素直にエンタメとしての満足感がある。おそらくこれが誰もが認めるジブリ映画の基礎能力のひとつなのだろう。

展開の楽しさ

 これもすごい。いきなりサイレンから始まり、猛烈なトラウマ体験が描かれた後、東京から離れたいいとこのお屋敷で繰り広げられる爽やかな停滞。爽やかだが、どこか居心地の悪さも同居していて、しかしやっぱり爽やかだ。

 そして例のペリカンマスク戦士…ではなく、アオサギ男という怪異存在との遭遇。戦中の豊かな家の子供の暮らしが続くかと思いきや急に『IT』みたいになる方向転換、すごい。主人公の少年真人(まひと)がまあまあ好戦的なのも良かった。穏やかな日々に踏ん切りをつける何かが欲しかったのだろう(石で傷をつけたくだりもおそらくそう)。

 アオサギ男との戦いを経て舞台は異界へ。ここでは独特の死生観であったり、謎ましいルールに則って生きる者たち、あるいは死者たちが存分に描写される。そこで紆余曲折があるのだが、ありすぎるのでここでは省く。この記事はネタバレを含むとは言ったが、ネタバレを確認するための情報的価値は不十分だろう。ちなみに、アオサギ男の正体はワリオみたいなおっさんだった。つまり案外付き合いのいい奴ということである。

・理不尽と優しさの肯定

 この物語、そこそこ理不尽が多い。物事は誰の同意もなく転がっていくし、転がれば傷もつく。それどころか自らを傷つけたりもする。また、すべきでないことに手を出して痛い目を見る場面も多々ある。しかしながら、重要なのは"致命的ではない"ということだろう。彼らは死にそうになっても、案外平気だ。

 そもそも、世界というものはどこであっても理不尽でできている。食べることは殺すことだし、それを避けても死ぬし、避けなくても死ぬ。異世界とて例外ではないし、世界の管理者(?)とて終わりが来る。真人の母も炎の中で死ぬ。どうしようもないのだ。どうしようもなくても、どうにか生きていけるのならばそれが望ましい。

 だから、生き物たちはルールを作る。自発的に決め事を共有する。倫理観も死生観も持つ。自らを擲ってでも他者を気に掛けたりもする。広く深い理不尽の海の上にある、薄氷のようなもの。それを"優しさ"とこの作品では呼んでいたのだと思う。理不尽と拮抗して人生のすべてを肯定しうる、強力な優しさがあった。人間は理不尽の中を生きていても優しさを持つことができるし、当然優しさを持っていていいのだ。

・よい作品だと信じられる体験

 自分にとって、作品とのよい出会い方というものがある。必然と偶然のバランスがちょうどいい時はまさにそれに当てはまる。満足した…

 今は満足したので、作品の隅々まで語るのはもうしばらく先にしようと思う。生きるというのは、たぶんそんな雰囲気でやっていけると信じている。なぜなら私はジブリ新作『君たちはどう生きるか』を観たからだ。


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