美しさと恐ろしさは両立するのか。千早茜さんの「魚神」を読んで
「美しい」という言葉を最後に使ったのはいつでしょうか。
「かわいい」とか「きれい」といった言葉はカジュアルに、そして日常的に使うけれど、「美しい」という言葉は、あまり耳にしない気がします。そして自分の口から出るには、どうも似つかわしくない言葉だなぁと感じています。
だけどこの小説を一言で紹介するとしたら、「怖いもの見たさで夫のLINEを盗み見するような後ろめたさと、モヤのかかった夢の中にいるような感覚に陥る、怖くて美しい小説です」というかもしれません。
注)夫のLINEは盗み見しませんが笑。
乾きと湿り気
秩序と混沌
平穏と不穏
そんな相反する感情が入り乱れます。
そもそものきっかけ
そもそも、この小説を読もうと思ったのは「真夜中の読書会〜おしゃべりな図書室〜通称マヨドク」で千早茜さんの本が紹介されていたからでした。
講談社の川端さん(バタやんさん)がマヨドクで紹介する本は、どれも面白そうで、自分の読書枠を広げてくれます。いつも車の中で通勤時間中に聞くのですが、読んでないのに、一冊の本を読んだかのような気持ちになってかなり満足度が高いpodcast です。
バタやんさんはリスナーさんからのお手紙を元に「勝手に貸し出しカード」をだして、おすすめの本を紹介しています。
添付した回では「日本語って美しい」と改めて思い、千早さんが出している本を全部読んでしまったリスナーさんに韓国小説をおすすめしていました。
この韓国小説も面白そうでしたが、個人的には、この洋書好きのリスナーさんが「日本語の美しさ」に感銘を受けたという千早さんの作品を読んでみたくなり、早速図書館に向かったのでした。
仄暗い表情の女性がこちらを見つめる表紙
目に止まったのはこちらの本。千早茜さんが小説すばるで新人賞を受賞した「魚神 iogami」です。
バタやんさんは、千早さんの特徴として、「無駄のない描写」をあげていました。感情を抑え、淡々としていながらも、食事や香りや洋服といったディティールを仔細な描写で描いていく。そういった細かな描写の積み重なりが、重層的で独特な空気感を生み出しているのでは、と言っていました。
確かにこの本の時代背景はかなり特殊で、日本の本土から切り離された島に住む、捨て子の姉弟が主人公です。彼女らはどんな関係で、どんな生活をしているのか、彼女らを取り巻く大人たちはどんな姿で、何に重きを置いているのか、などが仔細に描かれています。もしかしたら、今現在こういう場所があるのかもしれない。そう感じさせる鮮やかな情景描写にぐんぐん引き込まれていきます。
特に好きな描写
スケキヨが姉の白亜を丁寧に、思いやりを待って接していることや、自分の症状が軽いことで、たいしてひどくもないのに弟を頼り過ぎているのでは、という白亜の思いが描かれています。
お互いがお互いを思いやってることが行間からも伝わってきて、すごく好きなシーンです。薄荷油を塗った後の「すうすうと涼やかな空気が体から立ち昇り」って、何の違和感もなく、サラッと読んでしまえるのだけど、自分だったらこんなに的確に薄荷の清涼感を表現することはできないなぁなんて、思ってしまった個所でもあります。
こんな風に、自分が白亜になったかのような気持ちで、どんどん話が進んでいくので、なかなか一息つけません。
美しさと恐ろしさは両立するのか
どんなときに「美しさ」を感じるのかは人それぞれだと思いますが、おそらく、自分の内面や内側よりも、自分以外の何かや外側に「美」を感じる人が多いのではないでしょうか。
美しいものは恐ろしくもある。
どちらか片方しかないとすれば、それは偽りだとスケキヨは言い切ります。
私個人としては、人が作り出したものよりも、自然美に惹かれる。だけどそれに対して恐ろしさを感じていたのでしょうか。
フッと思い浮かんだのは、ボリビアのチチカカ湖に浮かぶ島をバックパックを背負って歩いていた時に見た夕日です。自分がその中に溶けてしまったように眩しくて、キレイだなぁと感じたのを思い出しました。
と同時に少し寂しくもありました。
きっと、この瞬間はもう2度とやってこないのだろうと。そして何となく、畏怖のような感覚を覚えました。決して人間が作り出せない光景。そう思ったらなんとなく、スケキヨのセリフの意味がわかったような気がしました。
忘れるために人は泣く
泣いたり怒ったりするのは、忘れるためだというこの箇所は、最も印象的なやりとりでした。
元日に起きた大きな震災。私の家族や家に直接の被害はありませんでしたが、今も大変な状況下にある友人たちの様子や、日々更新される新聞の情報を読んでいると、いつも胸が詰まったような苦しさを覚えます。
「まだ、涙がでないんです」と語る女性の記事を新聞で見つけました。大きすぎる悲しみや憤りに直面すると、人は泣けないのかもしれません。
人は忘れる生き物です。忘れないと生きていけません。悲しみや憤りをずっと持ち続けて生きていくのは、辛すぎますから。私もたくさん泣いて、たくさん怒って、忘れてきた気がします。
だけど泣いたり怒ったりしないと、人は本当に忘れられないのでしょうか。感情に任せるしかないのでしょうか。
私は「書くこと」も忘れるために必要だと思います。そして書くという行為は「癒し」にもつながります。自分の頭で覚えていなくてもいいという安心感から、忘れることもできます。記憶は曖昧で、断片的な強い衝動だけが残ると、苦しくなってしまうからです。
千早さんの本を読んだのは、これが初めてでしたが、感情がひしひしと伝わってくる描写にぐいぐい引き込まれました。「千早さんの中にはフードコーディネーターがいるのでは」とバタやんさんが解説するほど、登場する料理がおいしそうに描かれているらしいので、次はエッセイも読んでみたいなと思います。
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