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#230 マイノリティ潜在意識

インバウンド需要が戻ってきて、街に外国人が明らかに増えていますね。

都内だけでなく先日仕事で富山に行った時も往復の新幹線、それから駅にたくさんの外国人がいて驚きました。

静岡で生まれ育ちその後もずっと太平洋を見て過ごしてきた私は、生まれて初めての富山に人知れず心躍らせていたわけですけど、
はるばる海外から来た人たちと同じレベルかと思うと日本人としてちょっと恥ずかしかった。

つまり何が言いたいかというと、
今や彼ら(外国人観光客)の行動力と財力はそれくらいイケイケだ。


パンデミック前のインバウンドと言えば8割9割が中国人(銀座は中国人だらけ!)のイメージ。しかし今回はドル高も後押ししてか欧米からの来日客がとても多いように思う🤔

東京から富山・金沢に向かう新幹線「はくたか」の中で両腕タトゥの白人男性が任天堂switchに夢中になっている様はその象徴のように見えてほほえましかった。
彼はちょっと小さめの真ん中座席にしっかりとおさまって丁寧に画面の中の主人公を動かしていた。そんなお行儀のよさも含めて十分に日本を楽しんでいるように見えた。

一方でピンクや赤の髪の毛を丁寧に編み込み、ひときわ露出の高い服装でキャッキャとはしゃぐアフリカ系外国人の女子グループも、パンデミック前にはあまり見なかった光景ではないかと思う。

彼女たちがたむろする駅の一角は明らかに異彩を放っていたけど、会話の内容は制服を着た日本人女子高生となんら変わりがないのだろう。

そのまま学校に行けば先生たちがすぐさま駆けつけて生活指導の的になるであろうその出立ちも、彼女たちにとっては日常のスタイルに違いない。
よく似合っているとかそういう安易な感想以前に、それは紛れもなく彼女たちのアイデンティティだった。


決して校則などでは縛ってはいけない。そう思わせるのに十分な説得力がある。


駅にたくさんの外国人、それも多種多様な人たちを見かけるようになって改めて「多様性」という言葉の意味を知る。

日本にいるとそれは性別の話題に終始しがちだけど本来の意味はそれよりももっと広域。
彼ら彼女たちの髪質、肌の色、育った環境や民族の歴史まで含めて理解するのが真の多様性といえよう。
要はそんなに簡単な話ではない。


ここのところのインバウンド需要の盛り上がりは経済への刺激だけでなく、しばらく忘れかけていたダイバーシティの本当の意味を思い出させてくれる。

色んな人がいて、いろんな思想をもっていろんな行動をする。
それにはマジョリティとマイノリティがあって、全ての人が基本的人権をもって幸せに暮らすのっていったいどんな世界なんだろう。
そしてそんなことって本当に可能なんだろうか。


周囲を海に囲まれて植民地経験のない稀有な国家や国民にあって、移民や多国籍に対するハードルは思いのほか高いように思う。

その証拠に最近こんなことを感じた。



気温がぐんぐん上昇してさすがにマスクを着けて歩く人は減った。自分が利用する駅ではマスク着用率は2割ぐらいだろうか。

すると不思議なことに自分の目が、最近では圧倒的にマスクをしている人の方に向くようになった。

もともと人間観察癖のある自分は無意識的に周囲の人たちを見ている。
これまでは圧倒的にいち早くマスクを外して歩く人たちに目を奪われていた。
それは丸出しの顔に対する興味本位でもあるし、いち早く行動を変化させた人に対する羨望のまなざしでもあるし、
というかつまりは、マイノリティをこの目で捉えておこうというなんとも計算高い潜在意識がそうさせているのだろう。

そしてそのちょっと下衆い潜在意識は、
今となっては逆に”マスクをしている”というマイノリティに対して向くように変化している。

わかりやすく言うと「あの人なに?」という排他的感覚だ。


これは自分だけなのか、あるいはみんなそうなのか。あるいは日本人特有なのか?

いずれにせよマイノリティを排他的に捉えてしまうというこの潜在意識は、
今後多様性を素直に受け入れるためには自分自身の習慣を騙す必要があるぞと警笛を鳴らす。

街に溢れる外国人を見ながら、もっと幅の広い国際人になりたいと切望した。
それは寛容さとはまたちょっと違う、心の広さだったりする。





本日も、最後までお読みいただきありがとうございました!


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