ソーシャルワーカーのつぶやき〜ハンディのすれ違いと摩擦からみえる世界〜
支援は伴走であり、支援者は通過点
福祉分野のソーシャルワーカーとして現場を歩んでいる一支援者です。
ハンディのある方の「働く」をサポートしています。
支援は「伴走」とよくいわれますが、この言葉に賛同します。
私は一支援者であって当事者ではないことから、やはり当事者のとなりにいる存在だと思うのです。
そしてもうひとつ付け加えるのなら、支援者は「通過点」であるべきだと思います。
常に永遠に伴走し続ける支援には限界がくる。必要なときに、次のバトンを渡して、通過点としての存在であるのが理想ではないかとも思います。
必要なときに伴走し、そのときの状況に応じて伴走者が交代し、支援者はあくまでも「通過点」、そんな支援を目指しているわたしのひとりごとです。
ハンディとは
目に見えるハンディもあれば目にみえないハンディも存在します。
支援では、視覚障がい、聴覚障がい、身体障がい、発達障がい、精神障がい、高次脳機能障がい、知的障がい、難病のある方々と接し関わっています。
しごとの場では、このような多様なハンディをもつ方々が圧倒的なマジョリティ(多数派)になります。
支援者のわたしはいわば、マイノリティ。
支援のなかでハンディとマイノリティって何かについて考えさせられます。
視覚障がい者からみれば晴眼者となり
聴覚障がい者からみれば健聴者となり
身体障がい者からみれば健常者となり
「晴」とか「健」がふつうであることを突きつけられます。
視覚障がい者と会うまでわたしは目がみえることを「晴眼者」とよぶと知りませんでした。
聴覚障がい者と会うまでわたしは耳が聞こえることを「健聴者」とよぶと知りませんでした。
ある人は「ふつう」のものには名前がないと言いました。
例えば、「点字」は多くの人が知っている言葉であり概念です。
では点字ではない文字をなんというか?
「文字」でもなければ「日本語」でもありません。正解は「墨字」です。
多くの人にとっていつも見ている字が墨字だと認識しながら生活している人はいないと思います。
「墨字」は当たり前すぎて、これが「ふつうのもには名前がない」といわれる所以です。
ハンディはだれにとってのハンディか
しごと場では、視覚障がい者が車いすユーザーに文句をいう場面があります。
バリアフリーが整っている施設内では、エレベーターももちろんありますが、スロープ(1階⇔2階)もあります。
スロープは幅4mほどの幅広い通路になっています。
車イスユーザーのためのバリアフリー環境ではありますが、もちろんだれでも利用できます。
スロープを降りるとき、車イスユーザーは結構な勢いでヒューンと降りてくる人がいます。
そのスロープを使って、注意しながら白杖をつかって歩行していた視覚障がい者はその勢いに驚くわけです。
スロープをすごいスピードでおりてきて接触しそうになる。自分たちの存在を無視している、と。
目の見えない自分が車イスユーザーをよける必要はなく、よけるべきは車イスユーザーの方だと主張します。
車イスユーザーはスロープは階段が使えない車イスユーザーのためのものではないかと言います。
見えない視覚障がい者が優先されるべき?
身体の不自由な障がい者は目が見えるから優先されなくていい?
それってだれに対してだれへの配慮が必要?
あなたはどう思いますか?
また、別の場面で。
聴覚障がい者が情報保障として、話し合いに筆談を求めます。
これは当たり前の合理的配慮事項であることは周知の事実です。
話し合いの場には、身体障がい者も発達障がい者も同じ場にいたとします。
同時進行や同時処理が苦手な発達障がいの特性をもつ場合、人の話を聞きながら要点をまとめる筆談は難しいこともあります。
上肢機能に障がい(切断や麻痺など)がある場合、筆談は困難です。
もちろん現場では、UDトークのようなアプリやディクテーション機能を活用する方法をとりますが、そういったハード面の環境がなく、紙とペンしかなかったらどうすればよいでしょうか。
聴覚障がい者は聴覚障がい者だけのグループで話し合う場をつくればいい?
手話が共通言語になるから通訳も筆談の必要性もいらない。
ってそれは本当に多様性?
あなたはどう思いますか?
プロジェクターに投影されたプレゼン資料の画面を共有するとき。
その場に、ロービジョン(弱視)の視覚障がい者と手話通訳を必要とする聴覚障がい者がいました。
ロービジョンの視覚障がい者は部屋を暗くした方が光のコントラストがはっきりして見やすいといいます。
一方、同じ画面を見る聴覚障がい者は部屋が暗いと通訳者の手話が見えないから部屋を明るくしてほしいといいといいます。
どちらの意見を優先するべき?
こういう場では、別々の部屋で別々の環境でプレゼン資料を投影したら良い?ってそれはハード面の区別はソフト面での区別につながらない?
あなたはどう思いますか?
現場では折衷案を常に模索しています。
どちらが優先ではなく、どちらにも配慮を。
結果、部屋を暗くしつつも、手話通訳にはスポットライトを用意します。
合理的配慮とは誰に対してどこまでの配慮を求めるのでしょうか。
ユニバーサルな環境
当然ですが、ハンディはひとくくりにはできません。
どこに視点にもつかで世界はかわります。
視覚障がいといっても、全盲とロービジョン(弱視)では見え方も困難さもまったくちがいます。
「みえない」障がいと思うかもしれませんが、視覚障がい者は100人いれば100通りの見え方があります。
全盲であっても、生まれつき(先天的)の障がいか病気による中途(後天的)障害かで、見える世界と感じる世界はちがいます。
聴覚障がい者が使う手話には、日本手話と日本語対応手話があるといわれます。
ろう文化のアイデンティティをもつろう者は日本手話こそが本当の言語だと言います。
中途で失聴した聴覚障がい者が手話を習うと日本語対応手話になります。
中途失聴者は日本語にアイデンティティをもち、日本語対応手話の方が理解しやすいと言います。
第一言語が手話であるろう者の日本手話と、受障するまで日本語に慣れ親しみ、日本語にアイデンティティをもつ聴覚障がい者の使う日本語対応手話。
健聴者からみればどちらも手話なのに、手話のなかに境界線が存在します。
どこをみるかで世界はかわります。
境界は常に変化するバウンダリーです。
それが多少行き来できてもよいのではないかと思ういます。
いつでも、立ち位置を変えられること、それがバリアフリーな環境であり、ユニバーサルな世界になるということではないでしょうか。
それは、ハンディがある、ハンディがない、で区別されるものではなく、そのときの状況によって、場を変えられる臨機応変な対応をそれぞれができること。できる幅を広げていくこと、ではないだろうかと思うわけです。
「ユニバーサル」とは一般的、共通と訳されますが、加えて、ユニバーサルとは固定的なものではなく柔軟なもの臨機応変なものだと考えます。
ユニバーサルな環境とは、その場にいる人がいつでも立ち位置を変えられることなんじゃないでしょうか。
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