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#6 根っこの教育〜見えない力〜

■道徳教育って?

時代のスピードに、いや、日々のスピードに乗れ切れていないと感じることはよくある。

腹に落ちないと、いろんなことに逡巡し、ためらい、いつまでもグズグズ考えて先へ進めないことがある。

教育委員会から委嘱され、10年間ほど文部科学省の新学習指導要領研究協議会(年2回)に参加し続け、「総則」をはじめ「特別活動」や「教科」について、執筆・編纂に深く関与した教科調査官から直に説明を受け続けてきた。

詳細にわたって理解、納得できたかどうかは別として、他の専門家・識者がどう解釈・評論しようが、学習指導要領の編纂の深い部分に携わった各担当調査官ご本人から直接語ってもらい、時間外の場外乱闘(宴席、笑)で本音で対話しながら、意図することが少しだけ理解できたりもした。

あとは、それを咀嚼し、広く末端の学校現場にどう伝えるかだ。

それはそれで憂鬱な気分になったことを覚えている。

教科分科会とは別に、全体会では「道徳教育をどう進めていくか」という説明を受け、分厚い資料のページをパラパラとめくってみたが、頭にスッと入ってこない。

「教科化する」(特別な教科)ということは、従前とは考え方が違うということであり、そう簡単に腹に落ちないと感じた。

子どもたちを、意図する「道徳的な正解」へ導くということなのだろう。

日本における「道徳教育」とは何なのか、という “ そもそも論 ” を深く考えたことがない私である。

元々、高校には「道徳」の時間が設定されていないから、正直なところ、自分の中でも軽重の度合いは軽い。

もちろん、道徳観・倫理観そのものを軽く考えているというわけではない。

自分なりに考えている道徳というのは、非常に曖昧な表現になるが、「見えない力」 のことであり、定量化できるものではない。

それだけに厄介で難しいとも言える。

多くの人たちは、道徳観や倫理観を身に付け、社会の中で暮らしている。

道徳心のほんの一部が欠けていたり、魔が刺して良心のタガが外れて、他者に不快な思いをさせる可能性は誰にでもある。

重大な事件に発展することだってある。

■見えないところでの振る舞い

道徳的な振る舞いは可視化されていればいいのか?

目に見える木の幹や枝葉は重要ではある。
枝が何本にも分かれ、葉っぱが生い茂り、花が咲き、実が付き、そこから動物や人間は自然の恵みを頂いている。

やがて種が地に落ち、芽が出てくる。

植物は光合成をして二酸化炭素を吸収して酸素を放出してくれる。

人類は地球から多大な恩恵を受けているわけだが、この木を支えているのは目に見えない地中にある根である。

根がなければ水分も栄養を吸収できず成長もない。

人間の心(心根)にも同じことが言えやしないだろうか。

究極は見えないところ(誰も見ていないところ)でも、 善悪の判断や社会規範に基づいて行動できる力が道徳であり心根だ。

心の根が豊かになれば、豊かな人生を送れる確率が高まる。
そう、教育も道徳も確率を高める営みだ。

しかし、人生に「絶対」はない。
想定外、不測の事態、天変地異、思想・信条の違いによる意見の食い違い、心の行き違い、紛争・戦争の可能性が常に内在している。

世の中は「かわりあえなさ」が、そこ、ここに充満している。

それらのネガティブな事態の可能性を低めるのが規範であり究極は法律なのだろう。

道徳・倫理も、宗教も法律も、人間として、国民として、市民としての行動規範や指標が示されているという点では同じだが、成り立ちと用いられ方は異なる。

場合によっては哲学も関わってくるわけで、日本でいえば、自由民権運動の理論的指導者であった 中江兆民は「わが国には西洋諸国のような宗教闘争はないが、いにしえより今に至るまで哲学もなし」と述べている。

そこで彼はこう考えた。

「教育を改革する以外にない」と。

あの時代と今とは状況が違うにせよ、教育が持つ力を信じていたわけである。

現在、いじめ問題を背景とした中で、教育において今一度「道徳」と真剣に向き合っていきましょうというわけだ。

学生時代に読んだルース・ベネディクトの『 菊と刀 』(1946年)を思い出す。

彼女が述べた「恥の文化」は今もこの日本に息づいているのかだろうか。

タイトルの菊(天皇)と刀(武家、武士道)が単純な右傾化の意味でないことはわかっているつもりだ。

諸外国から見た日本人の不可解な行動規範は、実は日本人にとっては至極当たり前のことであり合理的なことなのだ、ということをベネディクトは言いたかったとも言われている。

『菊と刀』以後、思想・信条、宗教の自由によって、この国になだれ込んできた欧米の文化や思想、70年代以降に焼き直しされた新自由主義、市場原理主義等々が、日本でどう醸成されていったのだろう。

そして、時の政権に翻弄されながら教育界はどこへ向かおうとしているのか。

現場で日々の出来事に右往左往する教師は、立ち止まってじっくり考える余裕もなく、歩きながら、時に走りながら「学び」のあり方、教育の意味を問うて誠実に実践している。

勢いや思い込みだけで突っ走っているとは思わないが、何か小さな違和感を覚えるのである。

それが何に起因しているか明確にし、現場の教員がちゃんと語り合える環境をつくらなければいけないと感じる。

■主体的・対話的に深く学ぶ道徳?

子どもたちは、自ら選択する余地のない文部科学省お墨付きの検定教科書を用いながら、国家が規定する「家族」のあり方(国家権力による「家族」の包摂)を学び、「家族」を起点にして人生を考え、そして道徳や倫理について主体的・対話的に深く学び考えましょう・・・・というのだ。

現実に目を向けると、家庭の経済力の低下、不安定な雇用情勢、貧困と教育機会の不平等、子どもの育ちの環境や家族の崩壊、階級社会の進行等々、政権の施策次第というところがあるが、これらのことと教育の意義や役割とどう結びつければよいのか。

道徳といっても、教員はもとより、社会全体が十分に議論をして共通理解をはかっているとは言い難い性質のものである。

ちなみに、あなたは道徳観をどうやって身に付けてきたのだろう?

私は、小学校低学年の道徳の時間の教科書をベースにして、何かを学んだのだろうが、ほぼ覚えていない。

むしろ、イソップやグリム、アンデルセンの童話、アラビアンナイト、星の王子様、ミッヒャエル・エンデ作品や、児童文学の名作から、何かを心の中に刻み込んできたと思っている。

ヒトとの出会いやコト体験を通じての学びも数知れずあった。

自己の身の内側に突き刺さったこと、刻み込まれたことが今も生きているのだろう。
ああ、過ちも犯しているな‥‥

■未来をどう描くか

官僚や現政権の特権階級の人々が描く理想の教育の先にあるのは、格差の是正や特権(経済的地位の向上)を獲得することだが、それ自体に矛盾があるし、結果として発生する不平等は不問に伏すとなっているような気がしてならないのだ。

道徳教育を一層推進して、社会のありようがどう変わるのかロールモデルを提示してほしいと言っているわけではない。

文科省は、道徳の教科書・教材については「民間発行者の創意工夫を最大限生かすとともに、政治的中立性や宗教的中立性に配慮しつつ、バランスのとれた多様な教科書を認めるという基本的観点に立ち・・・・」としている。

大人たちが自ら考え創り出すバランス・・・・

バランスのとれた大人を育成するのも学校教育の役割。

バランスって何だよ!という気もする。

例えば、教育の方向性は、国民の支持を得た政権与党及び省庁や中教審の影響を受けているわけだから、これはバランスをとった結果というよりは、多数決の論理によって発生したパワーバランスだ。

私たち大人が持っている(身に付けてきた)道徳観・倫理観に共有できる部分がどれだけあるのか、今一度、心の根っこ、足下を見つめるためには、多数決の論理ではなく、コンセンサスが大切だと思うのである。

友人とそんな話をしたら、マナーの話にまで拡散して、ああ、一筋縄ではいかないなと思った次第。